2019年12月9日月曜日

旧三津坂隧道関連資料


旧三津坂隧道関連資料↓



旧三津坂隧道掃除ボランチア活動前の隧道入り口風景↓

2019年12月3日火曜日

岳南鉄道




 岳南鉄道
 静岡県内最多の鉄道計画案
 
 明治二十二年(一八八九)二月一日東海道鉄道国府津・静岡間が開通し、鈴川停車場(現吉原)も同時に開業した。かつて、東海道吉原宿として栄えた吉原町の町並みから鈴川停車場までは、はるか四キロの距離を隔てていた。明治四十二年四月二十一日東海道本線富士駅が開業し、その後富士身延鉄道と接続し、周辺の加島村はじめ岩松村・田子浦などは「文明への入口」として恩恵に浴したが、吉原町は疎外されていた。吉原町は鉄道のない街として近隣の伝法村・今泉村また根方方面の村々も、経済的・文化的、また時代的にも随分辛抱を強いられてきていたのである。
 太平洋戦争後、地元から岳南工業地域へ貨物と工場労働者を輸送したいという強い要望が起こった。敗戦の厳しい現実から復興への新しい希望に燃え立たせるには、まず交通問題の解決が課題となった。これは吉原町住民と製紙業界関係者の長年の切なる願いでもあった。しかし、吉原町にこれまで鉄道敷設の計画がなかったわけではない。むしろ吉原地域には県内最多の鉄道計画があったといって過言でないくらいである。

 大正六年(一九一七)、沼津を中心とした地元の人たちによって駿富鉄道株式会社が創立されている。沼津を起点として吉原を経て大宮(現富士宮市)に至る二二キロの鉄道計画で、敷設免許を得て工事に着手したが、大正七、八年の経済不況で解散した。大正七年には富士馬車鉄道の一部を譲り受けて吉原町.須津村間の根方街道の道路上に、根方軌道を敷設する動きがあったが、これも実現されていない。昭和二年(一九二七)沼津と吉原の有力者らが駿富電気鉄道株式会社を設立した。計画路線は、沼津から愛鷹山南側の根方街道を経て下和田・伝法.鷹岡村(富士製紙第一工場が所在)に至る鉄道で、関係町村では積極的な姿勢を示したが経済恐慌の最中で資金難から実現できなかったものと見られる。
 吉原町依田原にある東京入絹吉原工場が、昭和八年鈴川駅から工場までの二・三キロに会社専用の鉄道を敷設した。このとき、井出儀作吉原町長は用地買収やその他建設のために積極的に支援したという。これは住民の要望を考慮した将来への布石だったのであろう。昭和十八年に駿豆鉄道(現伊豆箱根鉄道)が沼津・吉原間の計画を行ったが、太平洋戦争の激化によりこれも中止となっていた。

 戦後吉原町に鉄道敷設機運
 戦後の混乱の最中、駿豆鉄道では再び戦前の鉄道計画を実現させようとして準備を進めていた。昭和二十一年十月十六日、鉄道布設免許申請書を運輸大臣平塚常次郎宛てに提出した。昭和十八年の計画を一部変更し、吉原町から沼津市静浦に至る二二・二キロで、建設費三五〇万円、目的は平和日本建設の一助に地方産業開発のためであった。
 吉原町には戦後「郷土に鉄道の実現を」のスローガンが掲げられ、交通協議会が設立され、鉄道敷設への強力な運動が展開されていた。それは戦後のたくましい息吹とともに、戦争中の苦難に満ちた交通対策をくぐり抜け、幾多の実現未遂に終わった時代に対する苦い経過があったからである。吉原町では駿豆鉄道の鉄道計画を歓迎した。しかし、計画案では沼津市から根方街道に沿って西進し、吉原町を経て鷹岡町入山瀬で国鉄身延線と接続しようとしている。これでは吉原町は通過地点に過ぎない。そこで国鉄鈴川駅から日産吉原工場(旧東京人絹吉原工場)までの二.三キロの引込線をそのまま利用して、同工場の裏から西方へ迂回して今泉木綿島地区の停車場予定地(現吉厚駅)までの区間を第一期工事とする修正案を立てた。
 駿豆鉄道側は日産工場の諒解が得られれば異存はないということであった。吉原町当局は、早速日産工場に対し引込線の譲渡か共同利用か交渉した結果、その敷設区間を賃借することとなった。

 駿豆鉄道が出願して積極的支援
 駿豆鉄道では吉原案を採用して既定計画案の変更認可申請を行い、関係機関に陳情する一方根方各村に対しての働きかけを進めた。原田村・吉水村・須津村・鷹岡町とも、吉原町同様に要望しているところで、第二期工事で須津村まで延長されれば全面的に協力を惜しまないということであった。
 岳南鉄道期成同盟会が昭和二十二年六月三日吉原町役場にて開かれ、同盟会長に房間熊吉吉原町長、実行委員には関係町村長・議員・実業家ら五一名が選ばれた。その後、房間会長は都合で辞任したため、後任に吉原商工会副会頭斎藤徳次、実行委員長に中井芳太郎吉原町助役が選ばれ、実行委員に四名が追加され陣容が強化された。
同盟会趣意書には「現状では産業の発展も文化の向上も到底不可能である。総力を結集して一日も早く会社側の大構想を実現させ、郷土の発展・民衆の福利を増進したい。交通難を解消し、南北の産業文化の交流円滑ならしめ、郷土の飛躍的発展を期する」とあり、その意気込みを示した。
翌二十三年二月十八日鈴川・吉原・原田・富士岡に至る六キロの敷設免許が下付され、待望の鉄道建設が実現に向けて第一歩が踏み出された。この朗報に地元民は喜び、いよいよ当事者らは株式の募集.会社設立.工事施行認可の申請・用地買収・工事の施工など、山積する問題に本格的に取り組むこととなった。

岳南鉄道創立初代社長斎藤徳次
期成同盟会とは別に岳南鉄道発起人会が駿豆鉄道大場金太郎常務取締役ら一〇名で構成され、資本金四〇〇〇万円、}株五〇円の八〇万株とし、発起人株は二〇〇〇株を引き受けることとなった。株式の割り当ては、地元関係者・有志らが四〇万株、駿豆鉄道株主の応募で四〇万株を消化することに決まり、同年末には六二七人の株主を数えた。
すでに下付されていた本鉄道敷設権は、駿豆鉄道株式会社より岳南鉄道株式会社に対し同年五月一日両社の代表により無償譲渡の契約が締結され、同年六月十一日その旨を運輸大臣宛に申請され、同年十月二十二日その認可が得られた。次に工事施工認可を得るべく駿豆鉄道株式会社の積極的な援助を受け、同年十一月一日工事施工認可申請を運輸大臣に提出した。鈴川・江尾問九〇〇三メートル、総工費九八四一万六八〇〇円、一粁(キロ)当たり一三八一万円となっている。
 昭和二十三年十二月十日、今泉小学校講堂において岳南鉄道株式会社創立総会が開催された。取締役社長に斎藤徳次富士製紙工業社長、専務取締役に大場金太郎駿豆鉄道常務、常務取締役に中井芳太郎吉原市助役、取締役には斎藤知一郎大昭和製紙社長ほか、稲垣直文.坂野碩太郎、大和瀬干浪・木内真雄・小島正治郎・小高義一、監査役に仁藤覚次郎吉原町元助役・鳥羽山康一がそれぞれ就任する。本社事務所は富士南部商工会議所を間借りしてスタートした。
全国に数社あった鉄道申請にさきがけて昭和二十四年六月八日、待望の工事施工認可が下付された。
 同年七月一日、吉原市木綿島六四番地(現吉原駅貨物ホームの位置)で運輸省松下技術課長.鈴木清一吉原市長ら関係者の参列を得て起工式が挙行された。鍬入れ式にのぞんだ会社主脳部の安堵感はどれほどであっただろうか。
 
鈴川・吉原本町 間待望の開通 
 
 昭和二十四年十一月十七日、鈴川・吉原本町問が開通する。用地買収その他で難航し、予定より一ヵ月半遅れていた。軌間一〇六七ミリ、区間二・七キロ。車両は木造の電動客車二、不随客車二の合計四両を西武鉄道・駿豆鉄道から譲り受けて運転した。車両は中古車のうえ、どれも運転操作が違い、運転士や整備工はその扱いに随分苦労した。地元新聞は「多年の夢実現、駅のない町ここに解消、多彩な祝賀行事」などの見出しで祝意を報じた。
 この日、早朝五時五十三分吉原本町発、鈴川行を始発として早くも開業された。午前十時から吉原本町駅前広場において開通式が挙行された。運輸省・通産省・名古屋鉄道管理局の係官、小林武治静岡県知事・沿線市町村首長・施工業者・株主・会社関係者ら多数が参列した。岳南鉄道は単に一企業の鉄道でなく、吉原市の将来構想の-翼をになう観点から周辺自治体と地域の有力企業と沿線住民の支援によって生まれたのである。こみ上げる喜びを抑えて式典
の挨拶に立った斎藤社長の心中に去来したものは何だったであろう。
(「静岡県鉄道興亡史」森信勝著 平成9年12月27日発行より)

2019年12月2日月曜日

幻の駿富電気鉄道株式会社


 駿富電気鉄道株式会社
 (昭和二年・沼津市)
 
 昭和二年(一九二七)沼津市と富士郡吉原町地区の有志が駿富電気鉄道株式会社を設立した。事務所を沼津市三枚橋字惣作一五三番地の一に置き、取締役社長に杉山周蔵が就任する。計画路線は、沼津から根方通りを経て富士郡今泉村下和田付近を通り、富和六所浅間神社の北側の旧大宮街道の近くを北進し、同郡鷹岡村を経て同郡大宮町至る一三マイル四チェーン(約二二キロ)である。
 わずかの記録をたよりにこの計画を追ってみると、昭和二年九月二十六日沼津市において発起人会が開かれたようである。富士郡吉永村役場の同目の日誌に「村長発起人会出席のため沼津へ出張」とある。同日誌にはその後昭和五年八月十三日までの問に幾度かの会合を記し、会社の計画の推進状況が記されている。それによると関係町村はこの鉄道建設について真剣に取り組み、会社理事者と各村当局は打ち合わせ会を重ね、あるいは村議会を開いて設置委員会を結成し土地買収をはじめるなど、関係町村では機を得た事業として賛成であった。
 富士郡伝法村の記録には、和田橋付近に設置する踏切、法寿寺の山門の並木の東側を横切る問題、また旧隔離病舎に対する補償問題などで、会社との交渉が難航していることが記されているが、敷地に反対していることではなかった。さらに同誌の記録によると、昭和五年八月二十一日付の会社より村長遠藤峯太郎宛ての「村内土地立入測量期日の延長」という通知を最後に、駿富電気鉄道株式会社の関係文書は一切見当たらない。
 この鉄道会社の設立理由は、東海地区と甲斐・信濃とを結ぶ広域商業圏をつくることであった。計画には反対者もなく全く順調な進展であったが、計画が挫折してしまう最大の原因は建設資金の調達問題であったと考えられる。当時の日本経済は、大正十二年(一九二三)の関東大震災以来先行きは暗く、昭和二年には金融大恐慌に襲われた。同五年には金解禁によって大不況時代を招来し、農産物の低価格による農業恐慌など、一体どこまで沈むのか皆目見当がつかない深刻な不況に見舞われていたからである。
(「静岡県鉄道興亡史」森信勝著平成9年12月27日発行よりの資料)


※杉山周蔵(初代沼津商工会議所頭取)は沼津駅停車場~三ツ目ガード(この時代建設)を通って根方街道を使い、門池公園(当時テーマパーク構想あり)や富士郡への鉄道を計画した。(※監理者加筆)

杉山周蔵
 1869(明治2)、沼津・三枚橋に生まれる。沼津中学校を卒業。
 1907(明治40)10月、駿東郡会議員当選(1)
1908年、沼津町議会議員に当選(1923年まで就任)
1919(大正8)、静岡県会議員に当選(1)1923(大正12)、沼津市会議員・静岡県会議員に再選。その他多数の公職を歴任。
 また、1903年沼津倉庫株式会社取締役。1908年、沼津銀行取締役、1912年、愛鷹肥料店取締役、1910年沼津町商工会長就任。1917(大正6)、富士煉乳を創立(森永煉乳と合併、解任)1919年、沼津運輸取締役、東京麻糸紡績取締役等々、実業面でも多数の役職を歴任した。
 1928(昭和3)、駿富鉄道株式会社を設立し、沼津駅から現在の学園通りを北上し、根方街道を東西に通る鉄道を計画した。これは、門池周辺を公園とする計画と連携するものであった。この鉄道計画の名残が三つ目ガードである。

 1939(昭和14)、逝去。
↑昭和初期の門池公園の遊覧公園チラシ



2019年12月1日日曜日

牧堰・本宿用水を探索 令和1年12月1日





牧堰門池用水の成立
牧堰の成立
「牧堰」の名が史料において初めて出てくるのは慶長7年(1602)の「まきせき之割」である。この年、大久保忠佐の家臣関久左衛門が、牧堰築堰にあたっての分担間数を書き付け、築堰を命じた。少なくとも、江戸時代初期には「牧堰」が成立していたことがわかる。ただし、この文書で「まきせき」と既に記されていることから、前述したようにそれ以前に「牧堰」と呼ばれる堰が成立していたとも推測できる。
江戸時代の用水施設工事
現在、我々が「堰」といったときにイメージするものはコンクリートなどで作られた恒常的に設置されている堰だが、近代以前の堰はこれとは異なり、毎年灌概用の水が必要な時期に、川に石を積み上げて築いたものである。この江戸時代の用水施設工事の主体は次頁の表のように分類される牧堰の築堰は、やはり毎年灌漑用の水が必要な時期に、川に石を積み上げて築いたもので
川水が掛る各村に分担されていた。上の文書からわかるように、この時期の牧堰は8ケ村(小林・沼津・三枚橋・上石田・木瀬川・中石田・下石田・日吉)で築堰されていた。これが、寛文3年(1663)には13ケ村、元禄の頃(17世紀末頃)には15ケ村の用水となった。
牧堰は、大久保忠左の郡代である関久衛門の命令で、水下の村々に丁場割が割り当てられており、後に述べる本宿村との訴訟において、領主からの丁場割やその後の代官の配符の存在などを提出して、領主による普請であることを主張しているところから、私領御普請か、それに近い御入用普請の形をとって建設したと考えられる。
大久保忠佐
大久保忠佐は三河国の生まれで、徳川家康に仕え数々の合戦で武功をたてた。兄には小田原城主となった忠世、弟には彦左衛門忠教がいた。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの翌年、忠佐は沼津城主になり2万石を領した。忠佐は、開発による田地の拡大と生産の増大に力を入れたと推測される。慶長9年(1604)の妙伝寺宛の寺領寄進状において、「永荒之所切起」と指示している。牧堰築造の指示も農業生産力増大策の一環であったと推測される。
慶長18年(1613)9月27日、77歳で亡くなり、子の弥八郎がその前年に残していたため、世嗣がなく、大久保家は廃絶となり、城も破却されてしまった。

(「牧堰・門池用水 水見の恵み人々のくらし」平成19年9月発行:明治史料館)
本宿用水・・・慶長8年(1603)、当時の領主。興国寺城主 天野三部兵衛康景か黄瀬川から取水して本宿耕地へ流下させるようにした灌漑用水路で、トンネルだけでも長さか280問(609メートル)あった。ここはそのトンネルの入口である。
その後、安政の大地震(1854)が起こり、これは陥没大破した。そこで領主に懇願して金230両を下げ渡してもらい、また、借金をしたうえ、下土狩村にも再びトンネルを掘る了解を求めた。
こうした技術面・財政面での困難を克服し、新規掘り返した結果、383間(696メートル)のトンネルになっている。長泉町教育委貝会(現地説明板より)

2019年11月22日金曜日

沼津郷土史年譜 明治元年~昭和20年9月


沼津郷土史年譜
明治元年(慶應4年)
8月 沼津藩家臣団内訳
沼津在住 侍小屋 105軒 惣長屋 56棟 世帯 385軒 人数(男)1,181人 (女)1,188人
江戸在住 世帯 97軒 人数(男)170人(女)156人
総数 2,695人
9月 徳川藩沼津移住完了 代戯館開設
10月 徳川藩の職員構成成立。西周助、徳川家兵学校頭取を命ぜられる。
11月 徳川家兵学校頭取以下各教授方の正式任命発令される。
12月 沼津勤番組組織成る。 西周兵学校附属小学校掟書31条を定む。
12月8日 代戯館を徳川家兵学校附属小学校に引き継ぎ開校。沼津城内南隅外堀沿いの建物を改造使用する。
徳川家兵学校開校掟書84条選定。校舎は沼津城二の丸旧城主水野邸を使用。


↓資料スライドシェアー




2019年11月18日月曜日

沼津駅前郵便局が50周年記念


沼津駅前郵便局が50周年、記念品を頂いた。


昭和44年に沼津駅前通りにあった、沼津郵便局本局が大手町から市場町へ移転されたので、しばらくして現在位置に沼津駅前郵便局が開局されたのではと思われます。
そこで、その当時のゼンリン地図を調べたところ、昭和45年当時の地図ではみどりや倉庫と表示されていますが、昭和56年の地図には沼津駅前郵便局と表記されておりました。
ちなみに昭和55年の地図では無記で□のままでした。思うに、昭和44年に本局が市場町に移ったあとの駅前通りの本局舎を使って、10年間、沼津駅前郵便局業務を行っていたと思います。沼津駅前郵便局は昭和44年からですと50周年ですね。
20191118日記 長谷川徹)


←昭和56年のゼンリン地図
本局跡(駅前通り)から現在地(仲見世三番街)に移った。








←昭和47年のゼンリン地図駅前郵便局(本局舎利用)

2019年11月17日日曜日

令和1年11月16日「ある幕臣の挑戦」田邊康雄講演(沼津ふるさと講座)田邉太一が歩んだ、幕末から明治








↓当日配布資料


沼津津ふるさと講座  
◆沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)主催の『市民公開講座』 11月16日(土) 13時30分 市立図書館4階 第3講座室
田邉太一、及び兵学校附属小に学び、琵琶湖疎水等の事業を成し遂げた田邉朔郎の子孫。
㈲田辺コンサルタントグループ代表取締役田邉康雄 「ある幕臣の挑戦 一静岡藩憾川家・沼津兵学校一等教授の田邉太一が歩んだ、幕末から明治」
◎幕臣(旗本)子孫・柳営会発行『柳営』第30号の特別寄稿を基に、太一の甥で日本を代表するエンジニア・朔郎の孫、現在83歳で生涯現役エンジニア・康雄氏が、来秋予定する「朔郎講座」の前段として語る。

↓「万波を翔る」田邊太一の小説 最後の沼津兵学校時代の章