2019年9月2日月曜日
2019年8月26日月曜日
人文パイプぶろぐ: 沼津藩士 別所彦四郎屋敷 井戸探検(現在ほさか製菓中庭)
人文パイプぶろぐ: 沼津藩士 別所彦四郎屋敷 井戸探検(現在ほさか製菓中庭): 170624別所彦四郎屋敷井戸探検 from 河谷杯歩 on Vimeo .
2019年8月25日日曜日
沼津あれこれ塾「伊豆石の行き先と使われ方」講師 原田雄紀(沼津市文化財センター)
江戸城や寛永寺に伊豆石
沼津あれこれ塾で文化財センター職員が解説
NPO法人海風47は24日、郷土史講座「沼津あれこれ塾」を市立図書館で開催。市文化財センターの原田雄紀さんが「伊豆石の行き先と使われ方」と題して話した。約30人が参加した。
伊豆石は伊豆半島一帯で採掘された石のことで、硬い安山岩と柔らかい凝灰岩の2種類がある。安山岩は伊豆北部、凝灰岩は南部と沼津市の一部(静浦、内浦、大平)に主に分布している。こうした地域には丁場(ちょうば)と呼ばれる採石場が古くからあった。
伊豆石は、古くは古墳石室の材料として使われ、後には三枚橋城の石垣にも使われた。
江戸時代には、徳川家康による江戸城の造営に使われ、現在の戸田地区などには造営に協力する諸大名の丁場が設けられた。丁場跡に残された石には、採掘者を示すための印が刻まれたものがあり、江戸城の石垣にも同じ印が刻まれた石があることが分かっている。
江戸城が完成した後も、臨時の需要に備えるために丁場は維持された。駿府城の修築工事や、寛永寺の将軍墓所の灯寵(とうろう)の製作などで伊豆石が使われている。後に寛永寺の灯籠の一部は各地に譲渡されており、その一つが市内の日緬寺(下香貫牛臥)に現存している。
この灯籠は11代将軍徳川家斉の墓所にあったものだった。原田さんによると、戸田産の石が使われている可能性があるという。
市内南部にあった諸大名の丁場は、当初は公用のために使われていたが、18世紀以降は商業化し、大名と商人によって石材が江戸に運ばれた。採石作業は地元の漁民が副業として行った。
幕末以降は、市内一帯で産出された伊豆石が品川台場や横須賀ドックの石材として使われた。戸田地区の井田では近代になっても多くの石工が暮らし、採石業が盛んだったという。
最後に原田さんは、西浦地区のミカン畑の石垣の写真を見せ、これらが農家自身の手によって造られたことを紹介し、市内南部は石材と身近な地域であった、とまとめた。
【沼朝令和1年8月28日(水)号】
2019年8月22日木曜日
明治天皇 皇城見取り図発見
明治天皇 皇城見取り図発見
焼失4年前、使節団が作成
オーストリァ、手記も保存
見取り図と手記はリンツ市司教区文書館にあり、同市郊外シュタイレック城の宮田奈奈研究員とドイツ・ボン大のペーター・パンツァー名誉教授が調査で確認した。手記には謁見4日後のピアノ御前演奏の様子も描かれ、明治天皇の素顔の一端がうかがえる。
皇城は二重橋(正門鉄橋)に近い現在の宮殿の南側にあった。見取り図は、皇城の玄関から謁見に使われた大広間(手記によると500平万フィート=約46平万㍍)を描写。天皇が謁見時に用いた御帳台や雅楽奏者、グランドピアノなど贈り物の位置のほか、使節団が茶菓の接待を受けた殿上の間も描かれていた。
学習院大史料館の客員研究員を務める岩壁氏によると、皇城の火災で73年までの主な公文書の原本はほぼ残っていない。
見取り図と手記を記したのは、日本と修好通商航海条約を締結するため69年に来日したオーストリア・ハンガリー帝国東アジア遠征隊の3等書記官オイゲン・フォン・ランゾネ男爵。
手記や日本側の外交史料「墺地利使節参朝並条約調印一件」によると、使節団は公使アントン・フォン・ペッツ男爵を全権代表とし、10月16日に皇城で当時16歳の天皇に謁見。ランゾネは、すだれである御翠簾(こすいれん)で顔を隠した天皇が使節団のお辞儀に答礼するため身をかがめて立ち上がつた際「若々しいお顔を拝見する機会にあずかった」とも記した。(共同)
群青の海 四方一彌
群青の海 四方一彌
八月六日、長らく続いた梅雨の空は一点の雲もなく晴れ渡っている。忘れていた海への想いに駆られ海岸へ急いだ。足を速めて松林を駆け抜けると、湿気の残る林の砂は軋(きし)む音を立てながら後を追ってくる。
砂丘の堤防に立って冨士山に目を向けると、先日まで松林越しに見えた残雪も今日はスッカリ消えて、濃い紫いろの山肌を浮き彫りにしている。言葉も忘れて、しばらく富士山に見入っていると、林の奥から一声、二声小鳥の囀りが聞こえてくる。
夜明けの空は雲が多いが、この日、西の空には碧い空が広がっている。波打ち際に立つと田子浦、蒲原、薩唾峠、興津を経て三保の松原、日本平に続く海辺沿いの家々が一望のうちに見渡せ、海辺の家々は簷(のき)を連ね、朝餉(あさげ)の仕度に立ち働く女衆の声が伝わってくるようだ。
明かりの点き始めた浜辺の家々の上には朝の光を受けて連なる簷から頭を西に向けるとその上には毛無、天子の山々、七面山、十枚の峰を際立たせて甲斐身延の山脈が連なり、赤石の山と二重、三重に重なり合って北から南へと延びる。
三保の松原から目を左に移すと、まだ明けやらない伊豆の山懐に抱かれた海辺の村々は大瀬の岬から江梨、久料、足保、立保、久連、木負、重須、三津の入り江の浦々の朝霧が掛け軸の軸をゆっくりと捲き上げるように夜明けを告げる。
一方、大瀬崎の白亜の灯台から伊豆の山々の稜線は真城、金冠、葛城と東に延び、田方平野を横切って箱根に連なる。
海辺には釣り人の数も増している。しばらくして波打ち際にいた女性が、こちらに向かって歩いてきた。堤防に腰を下ろしていた私は、「どちらからお出でになりましたか」と尋ねると、その女性は「新宿から参りました」と明るく応えた。朝の六時ということもあって、「では昨日、お出でになったのですか」と改めて尋ねると、「いいえ、今朝、出て来ました」と、海辺で釣り竿を投げ込んでいる若い男性を指さしながら爽やかに応えた。
「そうですか。私も東京には二十年、沼津から通いました」と応えると、「そうですか」と親しげに応えてくれた。
気がつくと沖には群青の海が広がっている。遅い夏が、そこに来ていた。
(松下町)
【沼朝令和1年8月22日(木)「言いたいほうだい」】
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