
2018年8月22日水曜日
2018年8月3日金曜日
地図から見た沼津④「沖ノ島(狐島)と登り道」 加藤雅功
地図から見た沼津④「沖ノ島(狐島)と登り道」 加藤雅功
今回は天保6年(1835)の『本町野方(ほんちょうのがた)絵図面』や天保(てんぽう)8年(1837)の『沼津本町絵図』などを紹介したい。沖ノ島(狐島)と沼津新田かつて東間門(まかど)村は西間門村と同様に愛鷹(あしたか)山の百沢(ももざわ)のうち、東熊堂(くまんどう)地内を流下する谷戸沢(やとざわ)(現谷戸川)から用水を引いていた。灌漑用水路の草刈川(古くは草苅川)河畔に位置した旧字輪ノ内の「御座(ござま)松)」は西間門村との境を示す榜示(ぼうじ)の松と思われるが、その東側には谷戸沢の分水の中溝(なかみぞ)川が流れる。古代の条里水田の方格状の整然とした土地割を示す「中溝耕地」は一ノ堰(せき)で分水する中溝井組(いぐみ)からの呼称で、より東側は整然さを若干欠く中に、特異な島状の土手が東西2町余りにわたって延びていた。
『本町野方絵図面』では「沖之島」とあり、字東と字西に分れた土手状の微高地は「草刈場」と記されている。また、『沼津本町絵図』では「狐嶌」(きつねじま)とあり、
凡例は「草木」で、屋根を葺(ふ)く茅(かや)や飼料用の秣(まぐさ)(飼い葉)の採草地であった。沼川分岐点の又井(またい)から分水する草刈川は、入会(いりあい)地に多い葦(あし)や茅などの草木を刈る「草刈場」に因(ちな)む命名で、沖ノ島の西側の畑地は旧字「上八通り」(後の上中溝)の微高地である。
明治5年(1872)の『駿河国駿東郡東問門村縮図』では、沼津本町との入会に東間門分として、東・西の表記がある島状の地があり、東側の高まりに独立樹の松が描かれている。島状の堤は丸子(まりこ)神社の真北、5町余の位置で、北側は「嶋外」(しまぞと)の入会地で、古くは「島外浸(ひたし)」の排水不良地で、変形の土手が囲繞(いによう)していた。より北側や西側は旧字「西阿原地(あわらち)」(後に阿原(あーら))、東側は後の字「ひたし」入会地で、ともにアーラ(芦原・荒原)の泥質・泥炭質や砂質の開墾地で、下々田(げげでん)が大半であった。なお、葦は刈り取られ、堆肥に利用された。用水掛りは黄瀬(きせ)川の牧堰(まきせぎ)からの本町溝(大溝)の「登道(のぼりみち)用水」(下流は子持川)で、西側の沼津本町分と
して、東西9町、南北4町ほどの広大な原野がかつて存在した。地形的には「馬の背」の微高地で、水掛(みずがか)りの悪い日損田(ひそんだ)と思われ、この西阿原と東阿原との中間に「沼津新田村」の集落があり、元禄以前に成立した新田開発の対象地であった。市道(いちみち)(五反田)と根方(ねがた)の東沢田方面とを結ぶ「新田道」(しんでんみち)が中央に通る沼津新田には「愛鷹神社」(村方持ち除地)があり、今は本字田町(現本田町)の「三神社」に合祀されている。
丸子神社のほぼ北に位置する沖ノ島(狐島)は、砂質土壌の土手の高まりから、原地区の男鹿塚(おがつか)・女鹿塚(めがつか) (雄ケ塚・雌ケ塚)の景観が浮かぶ。浮島ヶ原の沼沢(しょうたく)地とは異なる高燥地(黄瀬川扇状地)の中に孤立して、東海道から見ての沖の島で、草刈りの有用な地で、草木が生えて狐が棲息するような地形環境である。
ランドマーク(陸標)の「土手の古松」は、境界に絡む榜示(ほうじ)の松と推定される。明治5年(1872)の地図では沖ノ島に古い、大きな枝振りの良い松があった。この場所はその後、東京人絹(じんけん)沼津工場(後にフジクラ沼津事業所)の敷地内となり、削平されてしまった。同様な一本松は沼津新田(現本田町)の北側、字中ノ坪(東沢田分)と字塚田(中沢田分)間の境界部、新田道の1町西側寄りに、かつて榜示の松があった。
「古道」と「登り道」東間門の「御座松」は高貴な人に関わるか、御座の重ね合わせた形状に因むかと思われる。古道(こどう)近くのより西側に位置する、西間門の字神明(しんめい)や字北島付近は古い集落跡とされる。東海道以前の中世の古道が推定され、字神明には古く神明神社があり、かつて榎の古木があった。西寄りの旧松長村の「松長新田」も同様な中世の集落跡として、両方を結んで古道とする説がある。しかし、低湿地側に隣接する位置に加えて、近世の新田開発が関わり、地形環境のほかに居住の永続性やルート面で無理が生じる。
また、『沼津本町絵図』に描かれた独立樹の大松から、丸子神社の前と脇を通る点より、古道沿いの一里塚と推定する人さえいた「御座松」も伝承が残らない。絵図に描かれていた松は、その後の明治5年の地図では格段に松が小さく、塚も描かれていない点から一里塚の対象から外した。
一方、沼津の浅間神社へ明治10年(1877)に遷座した旧丸子神社も、東海道から離れている。『延喜式』(えんぎしき)の「神名帳」(しんめいちよう)記載の式内社(しきないしゃ)に比定されている古社の丸子神社は祭神として金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀り、東間門の旧村社であった金山神社も祭神が金山彦命で、同じ信仰圏にあった。その後、丸子神社は国常立命(くにとこたちのみこと)を合祀している。
丸子神社の北西寄りで、中溝川沿いに沼津本町分の字下道(古くは二十四通)があり、中沢田側から東間門への南北にわたる「下り道」(くだりみち)を指す。東側の道を「上り道」(のぼりみち)とも表記した結果-二次的に発生した。2つの道の間が「登道(のぼりみち)耕地」で登道用水の灌漑による条里水田の方格状の整然とした土地割を示す。
なお、沼津新田への道は「登り道」(のぼりみち)ではなく、元々「新田道」(しんでんみち)と呼んでいた。西側には「登堂之坪」(後の中登り道)、東側には「登堂坪」(後の白銀(しろがね))があった。
「幟所(のぼりど)」、「幟道(のぼりどう)」の字も当てられ、「登り堂」が「幟所」や「幟道」へ、さらに「登り道」と転化した。本来は幟の立てられたお堂に起源の可能性が高い。通りの西側の字塚田には細長い塚を、字法性寺(ほっしょうじ)には小さな稲荷を、天保の絵図に見るが不祥である。
愛鷹山麓の「根方」の集落とを結ぶ南北の道は、ほかに大字上土(あげつち)・三枚橋の境界部の延長で、東熊堂分に字中道(なかみち)があり、かつて「中道」と呼んだ可能性がある。東側の大字高田・三枚橋・日吉との境界部には字造り道があり、岡宮の浅間神社と平町の日枝(ひえ)神社(山王(さんのう)社)とを結ぶ「山道」で、成立が新しい故か「造り道」の字名(あざな)が残る。西側の大字上土・本町から西熊堂・東沢田の境界部は「根方道」と呼ばれ、七反田から東熊堂・西熊堂の大字境、熊野神社横を結ぶ県道162号の前身の道も「根方道」と呼ばれた主要道であった。
沼津市歴史民俗資料館だより
2018,3.25発行Vo142No,4(通巻217号)
編集・発行〒41O一O822沼津市下香貫島郷2802-1
沼津御用邸記念公園内
沼津市歴史民俗資料館TELO55-932-6266
FAXO55-934-2436
2018年8月2日木曜日
2018年7月28日土曜日
沼津兵器のこと(沼津市明治史料館通信第128号)
ぬまづ近代史点描76沼津兵器のこと
『沼津市史 通史編近代』(二〇〇七年)において、沼津兵器は「芝浦工作機械は、昭和一七年(一九四二)七月に沼津工場隣接地において子会社として沼津工業株式会社を設立し機関砲などの兵器製造を行なった。(中略)同社は「沼津兵器」と呼ばれることが多いが、創立挨拶状を見る限り「沼津工業株式会社」が正式名称である」と記されている。また同社は、昭和二〇年六月に陸軍に買収され名古屋陸軍造兵廠駿河製造所となったと記されている。
ここで紹介する資料は、当館が最近古書店から購入したもので、「沼津兵器」の事業計画書、創立総会議事録、敷地図、工場計画図、写真などが一括になっていたものである。これまで知られていなかった資料である。まず、事業計画書はタイプ打ちされた罫紙一三枚と「芝浦工作機械株式会社」と印字された封筒がホチキスで綴じられている。表紙に「沼津兵器株式会社事業計画書」とあり、「兵器」が赤鉛筆で「工業」と訂正されている。また、本資料中「三、会社ノ名称及所在地」の項の会社の名称も同様に「沼津兵器株式会社」とタイプ打ちされた「兵器」が「工業」に赤鉛筆で修正されている。当初は「沼津兵器株式会社」という呼称であったが設立直前に「沼津工業」となったと考えてよいだろう。
内容目次は一、設立趣意、二、資本金額、三、会社ノ名称並ニ本社及工場所在地から十一、所要資材数量まで項目立てされ、添付書類として敷地附近図、工場配置図が記されている。ここで紹介する敷地(予定)要図、工場配置図を指しているであろう。
内容を順に見ていく。一、設立趣意は「大東亜戦争勃発以来皇軍ノロ々タル戦果ニ依リ既ニ南方ハロ定セラレ今ヤ印度洋ヲ制圧スルニ至レリロ従而大東亜共栄圏確立ノ為ニハ愈々軍備殊ニ空軍ノ整備拡充ノ必要ハ言ヲ俟ザル所ニシテ是ニ伴フ航空機搭載用機関砲ノ大量生産ニ付陸軍御当局ノ御從慂ニ従ヒ左記計画要領ニヨリ重要機械製造事業法並ニ兵器等製造事業特別助成法ノ摘用ヲ受ケ御要望ニ応ゼンガ為兵器製造株式会社ヲ設立セントスルモノナリ」と記されている。四、工事計画として、工事着手は「御許可アリ次第」、作業一部開始予定時期は昭利十八年九月」、工事完成予定は「昭和十九年十二月」となっている。五、製品の種類は「航空機搭載用機関砲其他」、(※「関砲」が赤鉛筆で「銃」と修正されている)七、工事費予算書では、土地は約一三〇〇〇〇坪が見込まれ、建物は第一工場から第四工場、倉庫、事務所、青年学校及寄宿舎、射場、労務者住宅などが計画されていた。八、従業員では技術者一九五名、事務員三〇〇名、工員が一九九〇名、合計二四八五名を計画していたことが知れる。十、事業収支目論見書では、収入二四一〇〇〇〇〇円、支出二〇一五〇〇〇〇円、差引三九五〇〇〇〇円、純利益一五〇〇〇〇円とされている。
次に、創立総会議事録は、タイプ打ちの青焼き六枚がホチキスで綴じられている。開会は昭和十七年七月二十三日午後二時、仮議長の発起人総代藤島亀太郎(芝浦工作機械株式会社の常務取締役)が総会の成立を宣言し、そのまま議長に選任された。議案は第一号会社創立ニ関スル事項報告ノ件、第二号 定款承認ノ件と順調に承認され、第三号 取締役及監査役選任ノ件は久保正吉氏の発案で議長一任とされ、取締役として石光眞俊(芝浦工作機械取締役兼沼津工場長)、藤島亀太郎、野口専太郎、田邊輝一郎(芝浦工作機械事業部長)、並木寅雄が、監査役として久保田實、大澤貞治が選任された。第四号議案 取締役及監査役ノ報酬決定ノ件、第五号議案 商法第百八拾四條ノ規定ニ依ル事項報告ノ件と問題無く承認された。
敷地(予定)要図は表紙に掲げた。芝浦工作機械沼津工場の東に隣接し、現在の上石田交差点辺りまでの広大な敷地を予定していたことがわかる。ちなみに現在の「沼平町」自治会の名称の由来は沼津兵器の略称「沼兵」であるという。
工場計画図は青焼きの縮尺二千分ノ一図面である。敷地の北西部に青年学校が見える。この校舎は名古屋陸軍造兵廠駿河製造所に引き継がれ、戦後、国有財産を経て、昭和二二年七月、沼津市に払い下げられ新制沼津市立第七中学校(昭和二三年四月より大岡中学校と校名変更)として転用された。
(沼津史明治史料館通信第128号「ぬまづ近代史点描76:沼津兵器のこと」平成29年1月25日発行)
2018年7月23日月曜日
「三枚橋石板 本光寺へ移転 」記事
伝「三枚橋石板」の石板が、平成30年5月23日、三枚橋町橋爪稲荷境内から本光寺境内へ移設された。
去年の夏、三枚橋町自治会館を立て直す事が計画された。その際、自治会役員会議で、自治会館前に設置されている昔の歴史的遺物の三枚橋石板を撤去する事になった。
著者はその事について市役所の地域自治課職員から相談を受け、破棄してしまうのは大切な歴史的遺物が無くなることになるので、向かいの市立図書館に移設したらと提案。
間もなく、図書館でも沼津文化財センターでも石板を預かることが出来ないとの話しが来た。それでは本光寺さんにお願いしたらと再提案。
「本光寺さんは、元々「車返の里」に創建された寺院で、古東海道車返(三枚橋)にあり、元亀元年(一五七〇)武田勝頼三枚橋城築城時、第七世日出上人の代の元亀三年(一五七二)に三枚橋築城の拡張の際、車返の地より旧境内地八幡町に移転再興した。この地と御縁があり、その地の檀家さんが創建のころより続いています」と話した。
職員から本光寺さんに話して頂けますかと依頼され、直ちに光正住職にお話した。住職からは「当寺で保管します」の快諾を戴いた。
暫くして、三枚橋町自治会長さんからも「本光寺さんのお檀家さん」とのことで直接に住職に連絡しますと喜ばれました。
今年に入り、松原三枚橋町自治会長さんがお寺にお越しになり、移設の段取り等を打ち合わせた。
その後、光正住職から連絡があり、5月23日午前9時から移設作業を眞嶌光敏(石清眞嶌石材)さんが行うと連絡あり。当日記録するために現場に向かう。
作業経過
午前8時30分、三枚橋町 橋爪稲荷境内の三枚橋石板をクレーンでつり上げトラックに載せる、続いて台石も載せる。
午前9時、石板・台石が本光寺駐車場に着、クレーンにて下ろす。
午前10時 境内、墓地入り口の彼岸サクラの下に設置作業。
午前10時40分ごろ、移設安置供養の経を唱え奉る。
石板は 巾約65センチ 長さ約2メートル55センチ 厚さ約25センチ。
三枚橋石については。
間宮喜十郎の「沼津史料」に
『小流(即チ狢川)二石橋ヲ架ス、十数年前マデハ石三枚ヲ架シタルモノニシテ三枚橋ハ此ヨリ名ケタルナリトとあり、また同じく間宮喜十郎の「沼津小誌」には而シテ国道ハ今ノ三枚橋ノ西端高札場橋ノ東十数間ノトコロヨリ北ニ折レ(今鉄道停車場ニ通スル捷径タリ)城背ヲスギテ市道ノ辺ニ出テタリ、此路高札場橋ヲ距ル北一町ニシテ一ノ小石橋アリ、十余年前マデハ架スルニ三枚ノ石ヲ以テセリ三枚橋ノ名是ニ因ルト云フ』とある。
(長谷川徹 記)
2018年7月21日土曜日
2018年7月16日月曜日
沼津史明治史料館通信第133号「ぬまづ近代史点描80:一九六東京オリンピック 沼津市の聖火リレー」
Metushin133 from 徹 長谷川
ぬまづ近代史点描80
一九六四東京オリンピック 沼津史の聖火リレー
二〇二〇東京オリンピックの開催が二年後に迫ってきた。聖火リレーについても、種火を東日本大震災の被災三県(岩手・宮城・福島)に運んでイベントを行った後、沖縄県からリレーをスタートする方針が決まり、また都道府県別の日数が確定し、静岡県には三日間が配分されたなどの報道が出ている。さて、最近、昭和三九年東京オリンピックの開会式の時の静岡県内の聖火リレーに関する資料が見つかったので、この資料から五四年前の聖火リレーについて紹介したい。
昭和三九年(一九六四)八月二一日、聖火はアテネを出発し、途中イスタンブール、ベイルート、ダマスカス、テヘラン、ラホール、ニューデリー、カルカヅタ、ラングーン、バンコク、クアラルンプール、マニラ、ホンコン、タイペイの十三都市を経て、それぞれ一泊しながら全日空のチャーター機で空輸され、九月六日、那覇(沖縄)に到着した。当時の沖縄はアメリカの占領統治下で、本上復帰運動が盛んだった。沖縄に到着した聖火は島内をリレーした後、九日早朝に沖縄を発ち、鹿児島・宮崎・札幌に到着・点火した。南からは鹿児島を出発して九州の西側から本州の日本海側を通るーコースと宮崎を出発して九州東側から四国、本州の太平洋側を通る2コース、北からは札幌から青森で分かれ日本海側を通る3コース、太平洋側を通る4コースという4つのコースで(図1参照)、各コースとも一○日に出発した。静岡県は2コースに含まれていた。ちなみにリレー参加者は計一〇万七百十三人であったという。
静岡県のリレーコースは概ね当時の国道1号線を通るルートで、一八五・一㎞・百十四区間となっていた。コースが通過している二十五市町村は原則二区間、人口一〇万人以上の都市は一区間増、通過市町村以外は単独もしくは二町村以上で一隊を編成したほか、学校関係で特殊学校、通信教育、高等学校関係で隊を編成し、前年度、前々年度に国体、インターハイで活躍した学校を選出、団体でスポーッ少年団、青年学級、勤労青少年団体とし、種目別競技団体が東・中・西で三隊が編成された。リレー隊は、正走者一人、副走者二人、随走者二〇人以内、一六~二〇才の日本人(随走者は中学生可)で編成され、服装やアマチュアであること、毎時一二㎞を標準として走ることなどが定められていた。
静岡県に聖火がリレーされたのは、一〇月三日の一五時五〇分、愛知・静岡県境でのことである。ここを一番目として92番目の中継地点「吉原・原町境」で、一〇月六日一二時三八分、現在の沼津市域に聖火がリレーされた。92から93「東海ガス充填所前」までの区間一・八㎞は土肥町・戸田村で編成された隊が走り、正・副走者、随走者とも二三名全員が松崎高校土肥分校の男子生徒で、第93中継所までを走った。
93から95までの二区間は原町で編成した隊であった。93から94「原中学校正門前」まで一・五㎞の区間は旧浮島村で編成されたようで、正走者は山田政和(沼津商高)、副走者は堀内美秋(沼津商高)、殿岡豪(日大三島高)、随走者は浮島中学校の生徒二〇名であった。94から95「図書印刷正門前」までの一・八㎞は、正走者杉山学(沼津商高)、副走者赤池実雄(日大三島高)、深沢正和(日大三島高)、随走者は原中学校の生徒二十名であった。
95から96「沼津加工紙正門前」まで一・八㎞の区間は、東伊豆町・河津町の隊が、96から97「静岡スバル沼津営業所前」までの区問一・二㎞は、松崎町・賀茂村・西伊豆町の隊が、97から98「沼津商業高校正門前」まで一・三㎞の区間は南伊豆町・下田町の隊がリレーした。
98から101「黄瀬川橋東詰」までの三区間三・九㎞が沼津市の隊の担当であった。
98から99「平町バス停」まで一・六㎞の区間は、正走者は大島正義(沼津市役所)、副走者は堀江進(自営)・鈴木雅樹(不二石油)、随走者は中島忠男(土佐谷鉄工)ら社会人八人、沼津商業高校の男女生徒八人、一中、二中の生徒四人であった。
99から100「東京麻糸紡績沼津工場前」の一・一㎞の区間は、正走者は井上泰秀(県土木事務所)、副走者は早川昭男(国産電機)・加藤晴祥(神田製作所)、随走者は東芝沼津の社会人二人のほか中学校・高校の生徒一八人(沼津四高三人、沼津女商高五人、沼津市高二人、五中四人、金岡中四人)で、男女比が半々の隊であった。
100から101「黄瀬川橋東詰」まで一・二㎞の区問は、正走者折戸慶四郎(あみや酒店)、副走者茂呂嘉幸(加藤車体)、初又信好(漁業)、随走者は海福潔(日産自動車)ら社会人五人、高校生一五人(沼津東高一人、沼津市高六人、沼工一人、沼津工業高専五人、沼津北部高二人)であった。「黄瀬川橋東詰」で聖火は清水町の隊にリレーされ、その後115中継所「静岡・神奈川県境」までリレーされた。ちなみに、静岡県内の最終正走者は、後にハンマー投げでオリンピヅクに三度出場した室伏重信(日大三島高)であった。
一〇月九日、日本列島を四つのコースでリレーされてきた聖火は当時有楽町にあった東京都庁前に集まった。翌日の十月一〇口、一九歳の坂井義則(早稲田大学)が最終ランナーを務め、国立競技場の聖火台に聖火が灯されたのであった。
(本・文中敬称略。所属・町村名・場所等は当時)【沼津史明治史料館通信第133号 平成30年4月25日発行】
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