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2019年8月15日木曜日

◆沼津ヒラキ物語② 「下河原町(しもがわらちよう)と河岸(かし)」その2 加藤雅功


◆沼津ヒラキ物語②
「下河原町(しもがわらちよう)と河岸(かし)」その2 加藤雅功
●「ひらき」の始まり江戸時代の明和5(1768)において、仲町(なかちよう)の池田與三郎家文書に「ひらき物」があり、
これは開いた魚の干物を指していると考えられ、それより以前に「ひらき」の製造が行われていたことが分かる。
当時の魚仲間組合(「五十集(いさば)衆」)の沼津宿裏町(うらまち)の魚座(うおざ)の規則である「古例式」に記されている「ひらき」(1)という言葉が、沼津での初出と思われる。大火の多かった沼津では、水産加工品の史料があまり残っていないために「塩切り」か、または保存目的の「堅乾(かたばし)」と推定されるが、詳しくは分からない。
 下河原の統計から見ると、明治中期にはマグロ類の塩蔵品「盬鮪(しおまぐろ)」が生産量・生産額ともに突出しているが、その後の明治36(1903)には沼津本町で煮乾鰹(にいぼしいわし)・盬鯖(しおをば)など、イワシの煮干しや塩サバの生産が見られる。大正期に入ると西天王(にしてんの)網が沖引網漁法を取り入、巾着(きんちゃく)網の船団で駿河湾内に出漁し、狩野川から宮町河岸(がし)に乗り入れている。宮町から新玉(あらたま)神社付近までの河岸ではイワシの加工問屋が立地し、賑(にぎ)わいを増していった。
 ●干物からヒラキへ 魚を塩漬けする塩蔵品に対して、日乾(ひぼし)により完成させる「干物」(1)としては、腹開きの「興津鯛(おきつだい)」が有名である。駿河湾の沖合で採れたアマダイの胸骨・背骨を取り去り、塩漬けの後に日干ししたもので、明治28(1895)刊の『沼津案内』では産物の項で、魚類として鱲子(からすみ)とともに「甘鯛の干物」が都会の人々の嗜好品(しこうひん)であることを紹介している。昭和3(1928)の『沼津商工案内』掲載の広告からは、「沖津鯛」として仲町の濱田屋が製造販売していたことが分かる 内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)にも出品しているが、静岡・興津・清水・城之腰(じょうのこし)(現焼津市)が高評価なのに比べて、新興の沼津産の評判は芳しくなかった。
 明治27(1894)の『静岡県水産誌』では、西浦村で「鰺開乾(あじひらきぼし)」の製造が行われていたことが分かる。自家消費用のアジの干物であって、外に向けての販売目的の金額には達していないことを指摘している。静浦(しずうら)村の口野(くちの)・馬込(まごめ)、楊原村(やなぎはらむら)の我入道(がにゅうど)では開乾が生産されており、東京や甲信地方、沼津に販売されていた。
 とくに、幕末期以降に我入道などで干物の加工が行われるようになり、志下(しげ)のほか獅子浜(ししはま)・多比(たび)では塩物、干物、節物(鰹節など)を扱う加工業者が増加した。この地域では大正期に大量に採れたイワシなどが「煮干し物」のほかに、一部で干鰯(ほしか)として周辺の農村部の肥料に用いられている。
 一方下河原においては、明治期にはすでに仲買人の買い残した魚を地元の漁師が「ひらき」にして、自家消費の形で作っておかずにしたり、得意先に分けていた。また、大正8年頃には下河原の地元漁師たちが「ひらき」の製造をしていたと言われているが、「ひらき」の販路が十分には確保されていなかった。
 当時の製法が「魚の腸(はらわた)を手で出す」(2)とした指摘には、検討の余地がある。包丁を使った加工がムロ鰺(アジ)や鯖(サバ)などですでに実行されていた点から、イワシなどは「手開き」であったとしても、魚の腸を手で出す作業が中心であったかは甚(はなは)だ疑問である。しかし「水樽(みずだる)に塩を入れ掻(か)き混ぜ、開いた魚を水樽の中に入れておいたために、夏場などは早く傷むことが多かった。」(2)という点は、加工技術や食品管理面の稚拙(ちせつ)さからも容易に理解できる。
 戦前に前身の「大十(だいじう)」と後の沼津魚市場に勤めていた亡き父が「沼津の下河原はヒラキの発祥の地である。」ということをよく言っていた。日本橋や築地(つきじ)の市場(いちば)にアジ(真鰺)のヒラキが干されている写真を見るにつけ、納得することはできないが、半分は当たっていると思う。

(1)干物(ヒモノ)は一般的な呼称で、「開き」(ヒラキ)も市場に出回る際には「干物」で統一される。「開き」は形状から来たもので、魚を切り開いた状態を指す。「ヒラキを干す」というように、天日で干す(日干し)作業を経て「干物」となるが、沼津では製品となってもヒラキと拘(こだわ)る傾向が強い。江戸中期に「ひらき物」の呼称があるが、塩汁(しょしる)に潰ける過程を経て塩を洗う「塩切り」のヒラキに対し、塩蔵品ではない、日乾(ひぼし)により完成させる「干物(ひもの)」があり、さらに保存性を高めた「堅乾(かたぼし)」さえもある。
 また地元では、水産加工業者を「開き屋」と呼んだように、全般的な取り扱いの「干物屋」とは明らかに形態が異なる。専門特化した中で技術力を高め、差別化を図った背景がそこには存在する。
 (2)ひものに関する本文の一部は、「入(い)り町」の曽祖父の家に関わった親類、故加藤角次郎の叔父が語った談話を参考にしている。(「沼津魚仲買商協同組合三十年史」から一部引用。)
(沼津市歴史資料館「資料館だより」2019625日発行第222号)

◆沼津ヒラキ物語①「下河原町(しもがわらちょう)と河岸(かし)」 加藤雅功


◆沼津ヒラキ物語①
「下河原町(しもがわらちょう)と河岸(かし)」 加藤雅功
 今回から地元の水産加工業の干物と「開き」の歴史について少し語っておきたい。まず最初に、下河原の集落の性格と生活の舞台を中心にして記す。
 ●集落の性格 すでに紹介した江戸時代後期の文化3(1806)作成の「沼津本町絵図」から夫役(ふえき)を読むと、宮町(みやちょう)・下河原町とも歩行(あるき)屋敷と船手(ふなて)屋敷が多く、野(の)屋敷も10数軒を数える。宮町は船手が28軒、歩行が7軒で、家数48軒の下河原町では船手・歩行がほぼ半々であった。ともに狩野川河畔の「河岸(かし)」に位置し、道沿いに短冊型の土地割をなし、人足役を勤める歩行役以上に集落を特色づけたのは船手(ふなて)役で、船舶の管理や運送の任務に当たっていた点にある。
河川の港湾をなす「河岸」は船の荷物の積み下ろしをする岸であり、古くに北側の上土(あげつち)のほか、「魚町(うおちょう)」から「仲町(なかちょう)」にかけてがその中心で、問屋・仲買の人々が活躍する場でもあった。大正から昭和初期の絵葉書や新版画に描かれた蔵の連なる倉庫街と「河岸」の風景は、今もその片鱗(へんりん)をわずかに残している。
狩野川右岸では「河岸」の景観だけではなく、「川除(かわよけ)」の機能が重要であり、古くから洪水制御を目的に「出し」が築かれていた。下流側へ斜めに突き出す「石突き出し」(石出し)は単に「出し」と呼ばれ、細い河岸道(かしみち)の先に構築されて、普段は船の係留に役立てられていた。長さは6間程度、幅も5間前後あったが、基礎の材木に太い松などを矩形(くけい)の格子(こうし)状に組み、間に捨て石を置くために堅固で、新旧の堤防工事ではその撤去に難儀した。なお、明治末期には、宮町から下河原町にかけて7つの「出し」があったことを知る。
 これらの「出し」のほか、「河岸」に降りる坂や階段、舟繋(ふなつな)ぎの松、石垣・擁壁(ようへき)等から、川に依存する河港(かこう)の機能だけでなく、洪水災害常襲地の護岸の特異さを反映し、生活に根差した文化的景観をなしていた。
 ●生活の舞台 明治初頭の宮町・下河原町の絵図面を見ると、妙海寺(みょうかいじ)へは不動院に接した妙海寺通り(妙海寺門前)からで、「中(なか)の寺」と呼ばれた妙海寺の大門より先には、「ゑんぎ館」(ゑんぎ旅館)などが進出した。祖父が青年期に過ごした沼津本町の南端で、よく会話の中で「ゑんぎ館」の裏にあった「入町(いりちょう)」の実家のことが語られた。移転後に親類の加藤角次郎(山加)が住んだ地で、黄瀬川の被圧地下水を上総掘(かずさぼ)りで鉄管を貫いて得る「掘り抜き」の共同井戸を挟んで、友人の前田勉(丸リ)の家があり、ともに古くからヒラキの水産加工業を営んでいた。アジを代表とした魚の加工では、洗いや塩汁(しよしる)に潰ける際に井戸水などを大量に使用し、また近くにヒラキの干し場を求めるのが常であった。
 狩野川は柿田川の湧水が大量に注ぎ、清流のために沖合(流心)から汲み上げた水は腐らず、外洋に出る船舶が航海前に永代橋の下流で汲んでいたことを、よく父が話していた。「出し」と「出し」の間は「水の流れが一時的に止まって静かになり、魚の洗い場として好適であった」ことを山加の伯父が語っている。
また、新玉(あらたま)神社北側にあった「新玉(サス六)の出し」でも昭和7年頃、露木家(サス六)が魚の洗い場に利用していた。いずれも戦前の穏やかで、清らかな河の流れの頃の話である。
 絵図面に戻ると、下河原町の旧道から西側に入る道は「天王(てんのう)道」と呼ばれ、「中(なか)の寺」の妙海寺と「下(しも)の寺」の妙覚寺(みょうかくじ)の境内が接する位置に天王社が祀(まつ)られていたことに因(ちな)む。疫神(えきがみ)の牛頭(こず)天王を祭った天王社は、紙園(ぎおん)社とも呼ばれ、かつ下河原(下川原)の地名由来とも関係して、一時「下河原神社」とも呼ばれた。
また、天王道から入って突き当りの妙海寺に「古表門」の標記が別の古絵図にあり、この分岐した道が古くから成立していたことを知る。
 この天王道と旧第六天社(現川辺神社)とに挟まれた一画は、私の曽祖父が居住していた頃の通称「入り町」で、絵図では家が5軒ほどある。旧道からの文字通りの入り込んだ部分で、「入町」とも記した地は異形の区画を占めている。狭小ながら旧下河原として特異な部分をなし、クランク状の道の先には、天王社(祇園社)のほか、耕作地の中に千本への浜道が3本延びていた。
 ●下河原町の生業 宮町から下河原町にかけての住民の生業(なりわい)は、元々魚仲買の「五十集(いさば)衆」が多く、魚町や仲町などから移行して、商工業は活気を呈していく。古くは魚町に「魚座(うおざ)」とともに「魚河岸(うおがし)」があり、やがて大正から昭和初期にかけて宮町の「魚河岸」に魚市場が整備されると、問屋・仲買・小売りなど、関連の仕事への依存度が高まっていった。
下河原の千本浜での地先漁業は、古くにマグロ・カツオ・サバ・ブリなどの回遊魚を対象とした地引き網漁で、地元の天王社に因んで、網組名は「天王網」(しもあみ)(下網とも)である。祖父まではこの天王網組に所属し、下網は下河原を指す略称の「下(しも)」から来ている。やがて魚種も減って小規模となり、後に東西に別れてもいたが再統一され、現在まで継続している。沼津本町全体では明治中期に漁業を営む漁家が80戸程度にしか過ぎず、中でも五反田(ごたんだ)(市道) (いちみち)の人が多かった。魚町の小池屋を津元とした「小池屋網」とも言った「小池網」の網組が北側の市道の漁場を占めていたが、それでさえも半農半漁の生活を余儀なくされていた。
 明治20年代において下河原の農家は小舟を持っており、河ロ一帯で手繰(たぐ)り網漁を共同で行ったり、狩野川の船倉(ふなぐら)からも船を繰り出して、千本浜で地引き網(天王網)などを20人から30人の漁師で引いていた。60戸ほどの集落では、漁業は農閑期に限られ、やがてお蚕(かいこ)さんを飼う養蚕(ようさん)業にカを注いでいくこととなった。
 土地利用面を見ると、下河原や本町分の畑地では、養蚕が明治期に盛んとなって、明治20年代から戦前まで、狩野川寄りに蚕の飼料となる桑の葉を得るため、一面に桑畑が広がっていた。半農半漁の暮らしが続く中で、祖父が「入町」から妙覚寺裏に移転して、農業
で生計を立て始めていた大正末期頃には、下河原に郡是製(ぐんぜ)糸場も進出していた。現在の下河原団地付近にあり、地元から多くの女工が採用されて活気を呈していた。さらに昭和8年に「港湾地区」に掘込式の港湾(沼津港)がほぼ完成し、昭和10年頃からは耕地整理事業も進められた。
 昭和30年代からは都市化が進展し、かつて「下河原野良(のら)」と呼ばれた土地も普通畑さえなくなった。現在の内港(ないこう)付近で低湿地が目立った港湾周辺の水田も、観音(かんのん)川 【子持(こもち)川】沿いから千本中町付近まで分散してあったが、埋め立てられて消滅している。
(沼津市歴史資料館「資料館だより」2019325日発行第221号)



2018年8月3日金曜日

地図から見た沼津④「沖ノ島(狐島)と登り道」 加藤雅功





地図から見た沼津④「沖ノ島(狐島)と登り道」 加藤雅功
今回は天保6年(1835)の『本町野方(ほんちょうのがた)絵図面』や天保(てんぽう)8年(1837)の『沼津本町絵図』などを紹介したい。沖ノ島(狐島)と沼津新田かつて東間門(まかど)村は西間門村と同様に愛鷹(あしたか)山の百沢(ももざわ)のうち、東熊堂(くまんどう)地内を流下する谷戸沢(やとざわ)(現谷戸川)から用水を引いていた。灌漑用水路の草刈川(古くは草苅川)河畔に位置した旧字輪ノ内の「御座(ござま)松)」は西間門村との境を示す榜示(ぼうじ)の松と思われるが、その東側には谷戸沢の分水の中溝(なかみぞ)川が流れる。古代の条里水田の方格状の整然とした土地割を示す「中溝耕地」は一ノ堰(せき)で分水する中溝井組(いぐみ)からの呼称で、より東側は整然さを若干欠く中に、特異な島状の土手が東西2町余りにわたって延びていた。
『本町野方絵図面』では「沖之島」とあり、字東と字西に分れた土手状の微高地は「草刈場」と記されている。また、『沼津本町絵図』では「狐嶌」(きつねじま)とあり、
凡例は「草木」で、屋根を葺(ふ)く茅(かや)や飼料用の秣(まぐさ)(飼い葉)の採草地であった。沼川分岐点の又井(またい)から分水する草刈川は、入会(いりあい)地に多い葦(あし)や茅などの草木を刈る「草刈場」に因(ちな)む命名で、沖ノ島の西側の畑地は旧字「上八通り」(後の上中溝)の微高地である。
 明治5年(1872)の『駿河国駿東郡東問門村縮図』では、沼津本町との入会に東間門分として、東・西の表記がある島状の地があり、東側の高まりに独立樹の松が描かれている。島状の堤は丸子(まりこ)神社の真北、5町余の位置で、北側は「嶋外」(しまぞと)の入会地で、古くは「島外浸(ひたし)」の排水不良地で、変形の土手が囲繞(いによう)していた。より北側や西側は旧字「西阿原地(あわらち)」(後に阿原(あーら))、東側は後の字「ひたし」入会地で、ともにアーラ(芦原・荒原)の泥質・泥炭質や砂質の開墾地で、下々田(げげでん)が大半であった。なお、葦は刈り取られ、堆肥に利用された。用水掛りは黄瀬(きせ)川の牧堰(まきせぎ)からの本町溝(大溝)の「登道(のぼりみち)用水」(下流は子持川)で、西側の沼津本町分と
して、東西9町、南北4町ほどの広大な原野がかつて存在した。地形的には「馬の背」の微高地で、水掛(みずがか)りの悪い日損田(ひそんだ)と思われ、この西阿原と東阿原との中間に「沼津新田村」の集落があり、元禄以前に成立した新田開発の対象地であった。市道(いちみち)(五反田)と根方(ねがた)の東沢田方面とを結ぶ「新田道」(しんでんみち)が中央に通る沼津新田には「愛鷹神社」(村方持ち除地)があり、今は本字田町(現本田町)の「三神社」に合祀されている。
丸子神社のほぼ北に位置する沖ノ島(狐島)は、砂質土壌の土手の高まりから、原地区の男鹿塚(おがつか)・女鹿塚(めがつか) (雄ケ塚・雌ケ塚)の景観が浮かぶ。浮島ヶ原の沼沢(しょうたく)地とは異なる高燥地(黄瀬川扇状地)の中に孤立して、東海道から見ての沖の島で、草刈りの有用な地で、草木が生えて狐が棲息するような地形環境である。

 ランドマーク(陸標)の「土手の古松」は、境界に絡む榜示(ほうじ)の松と推定される。明治5年(1872)の地図では沖ノ島に古い、大きな枝振りの良い松があった。この場所はその後、東京人絹(じんけん)沼津工場(後にフジクラ沼津事業所)の敷地内となり、削平されてしまった。同様な一本松は沼津新田(現本田町)の北側、字中ノ坪(東沢田分)と字塚田(中沢田分)間の境界部、新田道の1町西側寄りに、かつて榜示の松があった。
「古道」と「登り道」東間門の「御座松」は高貴な人に関わるか、御座の重ね合わせた形状に因むかと思われる。古道(こどう)近くのより西側に位置する、西間門の字神明(しんめい)や字北島付近は古い集落跡とされる。東海道以前の中世の古道が推定され、字神明には古く神明神社があり、かつて榎の古木があった。西寄りの旧松長村の「松長新田」も同様な中世の集落跡として、両方を結んで古道とする説がある。しかし、低湿地側に隣接する位置に加えて、近世の新田開発が関わり、地形環境のほかに居住の永続性やルート面で無理が生じる。
 また、『沼津本町絵図』に描かれた独立樹の大松から、丸子神社の前と脇を通る点より、古道沿いの一里塚と推定する人さえいた「御座松」も伝承が残らない。絵図に描かれていた松は、その後の明治5年の地図では格段に松が小さく、塚も描かれていない点から一里塚の対象から外した。
一方、沼津の浅間神社へ明治10年(1877)に遷座した旧丸子神社も、東海道から離れている。『延喜式』(えんぎしき)の「神名帳」(しんめいちよう)記載の式内社(しきないしゃ)に比定されている古社の丸子神社は祭神として金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀り、東間門の旧村社であった金山神社も祭神が金山彦命で、同じ信仰圏にあった。その後、丸子神社は国常立命(くにとこたちのみこと)を合祀している。
 丸子神社の北西寄りで、中溝川沿いに沼津本町分の字下道(古くは二十四通)があり、中沢田側から東間門への南北にわたる「下り道」(くだりみち)を指す。東側の道を「上り道」(のぼりみち)とも表記した結果-二次的に発生した。2つの道の間が「登道(のぼりみち)耕地」で登道用水の灌漑による条里水田の方格状の整然とした土地割を示す。
なお、沼津新田への道は「登り道」(のぼりみち)ではなく、元々「新田道」(しんでんみち)と呼んでいた。西側には「登堂之坪」(後の中登り道)、東側には「登堂坪」(後の白銀(しろがね))があった。
「幟所(のぼりど)」、「幟道(のぼりどう)」の字も当てられ、「登り堂」が「幟所」や「幟道」へ、さらに「登り道」と転化した。本来は幟の立てられたお堂に起源の可能性が高い。通りの西側の字塚田には細長い塚を、字法性寺(ほっしょうじ)には小さな稲荷を、天保の絵図に見るが不祥である。
愛鷹山麓の「根方」の集落とを結ぶ南北の道は、ほかに大字上土(あげつち)・三枚橋の境界部の延長で、東熊堂分に字中道(なかみち)があり、かつて「中道」と呼んだ可能性がある。東側の大字高田・三枚橋・日吉との境界部には字造り道があり、岡宮の浅間神社と平町の日枝(ひえ)神社(山王(さんのう)社)とを結ぶ「山道」で、成立が新しい故か「造り道」の字名(あざな)が残る。西側の大字上土・本町から西熊堂・東沢田の境界部は「根方道」と呼ばれ、七反田から東熊堂・西熊堂の大字境、熊野神社横を結ぶ県道162号の前身の道も「根方道」と呼ばれた主要道であった。
 沼津市歴史民俗資料館だより
2018,3.25発行Vo142No,4(通巻217号)
編集・発行〒41O一O822沼津市下香貫島郷2802-1
沼津御用邸記念公園内
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