2016年4月16日土曜日

狩野川仲町岸の堤石垣出現


動画です





画像資料

2016年4月16日新居家河岸石堤画像資料



平成28年4月19日のマチケン隊新居家河岸石堤を探検





大正時代の仲町河岸の風景



沼津名所絵はがきより


丸子神社本町絵図(狩野川ダシが描かれている)


2016年4月3日日曜日

新幹線開通と停車駅など

 新幹線開通と停車駅など
 ふるさと塾 長谷川徹氏が解説
 一方、ふるさとづくり塾では、史談会会員の発表として、上本通り商店街理事の長谷川徹氏が「沼津の商店街-戦後昭和史3」と題し、昭和三十年代以降の市街地の歩みについて話した。
 その中で長谷川氏は、新幹線の開通と停車駅の問題について取り上げ、当時の国鉄は当初から沼津市街地を新幹線のコースから外していて、そこに沼津市や市民の意向は反映されておらず、市民や各種団体の反対のせいで沼津に新幹線駅が出来なかったという主張は誤りである、と強調した。
 当時の報道を調べた長谷川氏によると、昭和三十三年に新幹線の路線計画が報道され、そこでは沼津を避けたルートになるとされていた。
 三十五年二月に新幹線の建設予定ルートが国鉄から行政関係者に示されると、そこには沼津近辺のルートについて『石田北側-西熊堂―椎路北側―鳥谷ー青野ー井出・と説明がなされたとの報道があった、という。
 その後、三十九年に東京ー新大阪間が開業し沼津近辺は当初の説明通りのルートとなった。この時、新幹線の三島駅は存在しておらず、後に費用を地元が負担する形で建設され、四十四年に開業している。
 長谷川氏はこのほか、昭和四十年に開業した、現在の仲見世商店街と新仲見世商店街の間の旧国道一号の下にあった地下街「味のちか道名店街」についても話した。
【沼朝平成28年4月3日(日)号】

平成28年3月19日「異国船と村人」講師:青山学院文学部教授・岩田みゆき

平成28年3月19日「異国船と村人」講師:青山学院文学部教授・岩田みゆき


画像資料


2016年3月19日異国船と村人岩田みゆき教授画像資料



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沼朝平成28年4月3日(日)関連記事
幕末期異国船への対応
戸田にも動き、勝呂家で記録
沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)による第12回「沼津ふるさとづくり塾」が先月、市立図書館で開かれた。漁村史などが専門で沼津市史編さんにも携わっていた青山学院大学教授の岩田みゆき氏が「幕末期の沼津-異国船と村人」と題し、主に現在の市内南部地区の人々が異国船とどのように向き合ったのかについて話した。
当時も国際情勢への関心高く
ふるさと塾 青学大教授が解説
異国船への対応一八五三年のペリー提督によるアメリカ艦隊の来航以前にも、欧米の艦船は日本近海に出没しており、江戸幕府は対応を迫られていた。
一八四六年、アメリカ使節のビッドルが軍艦二隻を率いて浦賀に来航して日本との通商条約締結を求めたが、幕府の拒絶を受けた。一八四九年にはイギリス船マリナー号が相模湾の近海で測量を実施した。
こうした「異国船」が出現するたびに、幕府は警戒態勢を整えた。各藩に防衛部隊の出動を命じ、各藩は藩士を派遣するだけでなく、藩内の領民も動員した。
ビッドルの来航時、沼津藩は藩士を下田に派遣したほか、その一部が藩領となっていた戸田村では「郷筒」に出動準備を命じた。
郷筒とは、害獣駆除のために猟銃の所持を認められた人達のことで、沿岸警備の応援に投入される予定だった。しかし、ビッドルが帰国したため、実際に出動することはなかった。
マリナー号の際には、沼津藩は警備を担当していた東伊豆沿岸の台場(砲台)に藩士を派遣するとともに、戸田村では様々な作業に従事するための人足の動員が行われた。
また、いずれの際にも物資輸送のために船の動員も行われた。この動員は「取船(とりふね)」と呼ばれた。
飛び交う情報戸田村では名主の勝呂家によって異国船に関する様々な情報が記録された。村に対する命令や、それへの対応を備忘的に記しただけでなく、様々な風聞も記録した。ペリー来航時には、アメリカ政府の国書の和訳文を入手して転載している。
こうした村々の情報源となったのは、異国船対応のために動員された人達だった。
ビッドル来航の際には、取船の乗組員として現場に動員された船乗りが、緊迫した情勢を伝えている。それによると、異国船は「アミリカ」から来た大小二隻の軍艦で、大型の艦は大砲九十門を搭載していた。これに一対し日本側は、不測の事態に備えてアメリカ船を焼き討ちにする準備を進めた。火薬を積んだ船をアメリカ船に衝突させる計画だったという。
また、遭難して異国船に救助されて生還した船乗りの話も記録された。
文右衛門という船頭は一八五〇年一月六日に下出を出港した後、遠州灘で遭難。偶然発見した無人船に乗り移って漂流を続け、三月十日になって異国船に救助された。
この間に文右衛門は船乗り仲間に対して、「外国の捕鯨船に出会うこともあるから心配するな」と励ましていた。文右衛門は、それまでにも異国船に救助された経験があったという。
そうした過去の経験の中で、文右衛門は外国語をある程度理解していて、救助してくれた相手に「イキリス」の船かと尋ねたところ、「フラシヤ(フランス)」という答えが返ってきたという。その後、身振り手振りを交えて帰国協力の依頼をし、現在の岩手県の浜辺に送り届けられた。
文右衛門は異国人の生活を観察していて、フラシア人は米を食わずに「パン」という小麦の焼き餅を食べる、などと述べている。
終わりに岩田氏は講演のまとめとして、異国船の来訪に対して、村々では労働力提供などを命じられて負担も大きかったが、動員されて異国船の現場へと近づいた人達から貴重な情報を得ていたこと、日本人の船乗りは異国船や異国人に対して同じ船乗りとしてある種の親近感があったことなどの特徴を指摘。
そして、地域社会においても国際情勢への関心に高く、地域社会の歴史研究では、こうした新たな視点も重要になってくると話した。

歴史とまちづくり 匂坂信吾

 歴史とまちづくり 匂坂信吾
 沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)主催の新たな市民公開講座第1回「フレッシュ150・沼津ふるさと講座」は、四月十日(日)午後二時半から市立図書館四階の視聰覚ホールで開催されます。
 今回は本会の平成二十八年度総会の記念講演として行うもので、国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦氏による「明治文化史のなかの沼津病院」と題する講座を「沼津兵学校創立百五十周年記念事業」の一環として計画しました。
 記念事業は、本会と一般社団法人沼津医師会、沼津香陵ライオンズクラブが中心となり、関係団体の皆様と共に、平成三十一年の沼津兵学校創立百五十周年に向けて、杉田玄端や林洞海、室賀録朗や佐々木次郎三郎など時代の最先端を歩んだ医師達が活躍した沼津病院(江原素六が関与して駿東病院となり約八十年間存続)の歴史的意義を探ることを中心テーマとしています。
 この取り組みは、沼津兵学校の重要な遺産である、明治・大正・昭和、そして現在に至る地域の医療と文化、教育や産業振興などの関わりを学び、「歴史を生かした沼津のまちづくり」に結び付けていこうとするものです。
 これに先立ち、午後二時頃から同じ会場で、お楽しみマチづくりセレモニー、及び本会の最高齢会員である矢田保久氏によるスピーチなどを予定しています。
 総会で会員に配布する会誌『沼津史談』第67号には、現在満百歳の矢田氏が昭和二十一年から数年間、旧制沼津中学の同窓生と共に、終戦後の焦土と化した郷土を再びよみがえらせようと、市民のための文化運動として取り組んだ「沼津自由大学」に関する特集が二十四ページにわたり掲載されています。
 大中寺の下山光悦住職(本会会員)が以前、矢田氏と行った対談の前半を掲載した昨年発行の会誌66号で、自由大学の話題が注目されました。本会では矢田氏が保有されている七十年前の、自由大学に関する資料が貴重なものであるため、関連する情報と併せて会誌に掲載するとともに、昨年開設したホームページの活用などにより、情報発信を図ることといたしました。
 講座の当日、会場の受付で会誌の第66・67号を展示・頒布(各千円。前者は残部僅少)しますので、購読を希望される方は受付でお申し出ください。
 市民公開講座への参加は定員二百人、先着順で、資料代五百円が必要です。
 また、入会希望者は事前に、あるいは当日、受付で入会手続きを行い、午後一時からの総会にご参加ください。年会費は一人四千円、夫婦会員は二人で六千円です。会員は会誌・会報、講座受講料など(一人当たり年間八千円相当)が無料となり、学習や旅行企画などの活動に参加しやすくなります。
 問い合わせと講座受講の申込みは、担当の上柳(かみやなぎ)晴美(電話〇九〇ー一四一八ー〇四三五)まで。
 (沼津郷土史研究談話会会員小諏訪)
【沼朝平成28年4月3日(日)「言いたいほうだい」】

2016年3月18日金曜日

陸軍大将 井口省吾の足跡Ⅲ資料・画像:講師 井口賢明氏


平成28年2月20日
第11回「沼津ふるさとづくり塾」
陸軍大将 井口省吾の足跡Ⅲの資料(pdf)と画像






資料です












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2016年2月20日井口省吾の足跡3画像
 沼津史談会ふるさとづくり塾
 井口賢明氏が講師務め
 酒津郷土史研究談話会(沼津史談会)による第11回沼津ふるさとづくり塾が先月開かれ、同会会員の井口賢明氏と長谷川徹氏が講師を務めた。井口氏は「陸軍大将井口省吾の足跡その3」と題し、大岡地区出身の陸軍大将の生涯について話した。弁護士で同地区在住の井口氏は、井口省吾の同族に当たる。井口日記を活字化して出版する準備を進めていて、年内に刊行予定だという。今回の講演は全三回の最終回で、明治三十五年(一九〇二)の参謀本部総務部長就任の経緯の説明から始まった。
 参謀本部総務部長就任から
 日露戦争経て戦後のキャリアへ
 参謀本部へ 陸軍大学校教頭を務めていた井口は、陸軍省に転任して課長として動務。上司である陸軍大臣を児玉源太郎が務めていた頃は円満な勤務状況だったが、大臣が寺内正毅に変わると、新大臣と激しく意見対立するようになった。
 この遠因には、当時の陸軍内の派閥抗争があるという。当時、明治維新で活躍した長州藩出身者が一大派閥を形成していて、井口は、それを批判的に見ていた。寺内だけでなく児玉も長州出身だったが、児玉は派閥にこだわらずに接することができたという。
 省内にあって不遇な井口に助け船を出したのは田村怡与造(たむらいよぞう)だった。参謀本部の総務部長だった田村は、同本部次長に昇任するのに伴い、井口を後任の総務部長に推した。
 井口は職務上に不可解な点があれば遠慮をしない性格だったので、日頃から井口は田村に対しても異議を唱えて両者は口論が絶えなかった。大声で怒鳴り合うこともあったため、田村が井口を後任に据えたことに対して、陸軍内では驚きの声が上がったという。
 山梨出身のため「今信玄」とも呼ばれた田村は井口に好意的で、その才能も評価していたという。田村は来るべき対露戦に備えて、参謀本部に優秀な人材を集めようとしていた。
 日露戦争このころ、中国大陸や朝鮮半島を巡る情勢から、日露の対立は激化。開戦は時間の問題で、戦争を始めるなら早い時期が有利、という主張が軍部や政府の内部に存在していた。
 これはシベリア鉄道の整備状況を見据えた議論で、ロシアが欧州の兵力を極東に派遣するのに必要な鉄道の整備が終了する前に開戦すれば、日本にとって有利になるという考え方だった。早期開戦論者の集まりは、会合場所の料亭の名から「湖月会」と呼ばれた。日記の記述によると、井口も湖月会と関わりを持っていたという。
 日露戦争の準備を進めていた田村だったが、明治三十六年(一九〇三)に急死。参謀本部トップの総長を務める大山巌は縁戚の伊地知幸介を後任の次長に望んだが、陸軍内の反対も強く、内務大臣を務めていた児玉源太郎が大臣を辞職して次長とまった。
 その翌年に日露戦争が始まると、児玉は満州軍(戦地派遣軍)の総参謀長となり、井口は参謀となった。井口はウマの合う児玉と文字通り寝食を共にし、作戦立案について議論を重ねた。
 戦局が日本軍優勢となり、重大決戦である奉天の会戦に日本軍が勝利した時、井口は腎臓病に苦しんでいた。奉天城を占領した日本軍が入城式を挙行した際、軍の高官は揃って馬に乗って城門をくぐったが、病身の井口は城の近くまでカゴで担がれて移動し、それからようやく馬に乗り換えて式典に参加できたという。
 戦後のキャリア戦後の井口は病気を理由に辞職を願うが、慰留されて明治三十九年(一九〇六)に陸軍大学校校長となり、大正元年(一九一二)には第十五師団の師団長となった。
 校長時代には、軍上層部から落第者への温情を求められたものの、これを断固拒絶するという逸話を残している。
 愛知県豊橋に本拠を有し、静岡県も管轄区域に持つ第十五師団の師団長就任は、井口にとっては喜ばしいものだった。
 参謀本部総務部長や陸軍大学校校長も軍の高官だったが、直属の部下は少ない。一方で師団長は一万人を超える将兵を部
下に持つ、いわば「一国一城の主」であり、公務員としてのランクも県知事より格上と見なされていた。
 この第十五師団は、沼津とも多少の縁があった。当時、師団誘致は地域経済に大きなメリットをもたらすと考えられていて、各地が誘致に熱を入れていた。同師団開設の話が持ち上がると、当時の沼津町も誘致に乗り出七、陸軍大学校校長だった井口を町長が訪問し、誘致への口添えを依頼したという。
 皇室観と人柄 師団長就任までの井口の経歴を解説した井口氏は、特に師団長時代に顕著だった井口の皇室観についても紹介した。
 それによると、井口は明治天皇への敬愛の情が強かった。そのため、自分が信仰する宗派は「明治天皇宗」だと話したり、式典の祝辞で明治天皇をナポレオンや豊臣秀吉を超える才能の持ち主だと述べて物議を醸したりなどの特異なエピソードを残している。
 また、大正天皇と面談する機会を得た際には、天皇に対して酒とタバコの害を伝え、節制するよう進言したという。
 井口省吾の生涯を語り終えた井口氏は、講演の最後に井口の人柄を評し、「正義感が強い硬骨漢で、裏表がない人物だった」と話した。

 不二家工場や上水道の整備
 長谷川徹さんは沼津の戦後史を
 一方、沼津史談会会員の長谷川氏は、前回に続いて「沼津の商店街ー戦後昭和史」と題して話した。
 その中で、戦後間もなくに第五地区に建設された不二家の水飴工場が、後に同社の主力商品である「ミルキー」の生産工場となり、製品が全国に向けて出荷されていたことを取り上げ、「これこそ沼津初の全国ブランドと呼べるものではないか」と話した。
 また、沼津市の上水道整備についても話し、戦時中の海軍用水源の水利権を市がいち早く取得したことを紹介し、「当時は予算の関係で市議会には反対もあった。しかし、この時に水利権を得たからこそ、現在も柿田川の湧水を正当に使用することができている。当時の人々の先見の明は素晴らしい」と指摘した。
【沼朝平成28318()号】

2016年3月17日木曜日

明治40年3月21日沼津電話開通 その頃の電話番号と店名

明治四十年三月二十一日 沼津電話開通

【電話番号:壹番沼津郵便局(下)・貮番郡役所(追手二)・参番若松屋呉服店(上土)・長四番米儀杉山周蔵(平)・五番山本旅館(追手一)長六番沼津銀行(追手二)・七番北川米店(魚)長八番日野屋(上土)・九番江三茶店(上土)・十番小栗商店(仲)・長十一番煙草会社(魚)・長十二番中埜分店(市場)・十三番中埜酒店(魚)・十四番食塩会社(川廓)・長十五番清水旅館(追手二)・長十六番片浜銀行(本)。・長十七番宮坂呉服店(魚)・長十八番岳陽運送会社(追手一)・丸大河邊運送店(追手一)・二十番山田足袋店(上土)・十二番丸一高橋薬局(上本)・長二十二番駿東実業銀行(通横)・二十三番高梨鎌次郎弁護士(條内)・二十四番室賀医院(追手二)・二十五番室賀薬舗(上土)・二十六番耕文社(追手一)・長二十七番御厨銀行(上土)・長二十八番小松屋魚問屋(宮)・二十九番朝市肥料市場(仲)・長三十番中埜酒店(魚)・長三十一番杉本旅館(本)・三十二番角木屋材木(出口)・長三十三番朝市加藤市平(新)・三十四番伊勢市酒油乾物商(通横)・長三十五番三十五銀行(上土)・三十六番三河屋魚問屋(仲)・三十七番丸二薬局(通横)・三十八番伊勢為洋品舗(通横)・三十九番あみや醤油店(上土)・四十番駿東病院(西條)・四十一番長澤質店(宮後)・四十二番商業学校(西條)・長四十二番丸京(三枚橋)・長四十三番丸京斎藤運送店(追手一)・長四十五番岡市米塩商(平)・四十六番亀田屋材木商(志多)四十七番木村荘次郎(條内)・長四十八番近半漁網商(魚)・四十九番魚保てんぷら(下本)五十番浮影楼(湊橋)・五十一番寿々喜鰻料理(湊橋)五十二番臨川館料理店(向岸)・長五十三番桔梗屋旅館(上本)・五十四番藤井活版印刷所(鵰)・五十五番勢力料理店(上本)・五十六番奥田楼貸座席(下本)・五十七番甲菊の家(下本)・五十七番乙新菊(上本)・五十八番花月(下本)・五十九番旭園和洋菓子店(上土)・六十一番紀市材木店(志多)・長六十二番櫛部荒熊弁護士(川廓)・六十三番大阪屋支店(通横)・六十四番布澤呉服店(通横)・六十五番須田茂馬医師(上土)・六十六番浜島支店竹材(平)・六十七番村木小間物店(上本)・六十八番美好屋(下本)長六十九番杉傳魚問屋(宮)・七十番山平魚問屋(宮)・七十一番恵澤屋呉服店(浅間)・七十二番高砂屋紙油(浅間)・七十三番花の家(上本)・長七十四阿波屋石原支店藍砂糖石油(上土)・七十五番市川時計店(上土)・七十六番開花楼料理店(下本)・七十七番岡田屋砂糖(浅間)・七十八番龜屋呉服店(浅間)・七十九番大阪屋紙店(通横)・百番蘭契社(通横)・百一番岩田寛弁護士(條内)・百二番紀藤醤油問屋(川廓)・百三番小玉屋錦糸店(魚)・長百四番和多仁瓦石灰(志多)・百五番和多仁石油部(松の木田)・百六番芹澤屋旅館(出口)・百七番丸肥駿豆肥料(三枚橋)・百八番復明館(條内)・長百九番沼津倉庫會社(片端)・百十番沼津町役場(條内)・百十一番三桝家(下本)・百十二番大門堂薬舗(通横)・百三十五番浜田屋本店(仲)・百三十六番森川菓子舗(通横)・百五十四番桃中軒(停車場前)長百五十一番梅田兄弟商会乾物問屋(上土)沼津の栞より