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2019年2月24日日曜日

駿府城跡 秀吉の城興味津々 見学会盛況 堀の底で遺構


駿府城跡 秀吉の城興味津々
見学会盛況 堀の底で遺構
 静岡市は23日、同市葵区の駿府城跡天守台発掘現場で、2018年度の調査成果を紹介する見学会を開いた。来場者が多く詰めかけ、初めて見つかった本丸の出入り口や豊臣秀吉が家臣に築かせた"秀吉の城"の遺構など、貴重な発見に目を輝かせた。
 18年度の調査では、家康と秀吉が関わった二つの天守台が同じ場所に現存していたと確認▽三つある本丸への出入り口のうち「升形」と呼ばれる構造の出入り口を初めて発見▽天守台の基礎に当時一般的だった木材ではなく巨石が使われていたと判明ーなどの成果があった。来場者は普段立ち入ることができない堀の底に下りて遺構を見学し、天守台の迫力に驚いていた。
 駿府城跡天守台は天守や門などの建物が既にないため、発掘調査により、天守台自体の構造を調べることが可能になっている。秀吉と家康、二つの時代の天守台が同時に存在することで、築城技術の変遷も確認できる。調査員は「全国にいろいろな城はあるが、巨大城郭の築城過程を知ることができるのはここだけ」と駿府城の価値を来場者に説明した。
 発掘調査は19年度が最終年度で、駿府城築城以前の今川期の遺構を確認する。
【静新平成31224()朝刊】

2019年2月22日金曜日

駿府城本丸入り口発見




駿府城本丸入り口発見
あす見学会 升形虎口石垣の一部
 静岡市が同市葵区の駿府城公園で行つている2018年度の発掘調査で、徳川家康が築いた駿府城本丸の入り□の建造物である天守下門(したもん)を含む升形虎口(ますがた
こぐち)の石垣が見つかったことが21日、関係者への取材で分かった。市は23日に市民向けの現場見学会を開いて解説する。
 発掘された遺構は天守台の石垣とは石の積み方が異なり、角度がより垂直に近い。天守台東側の石垣と接続した状態で見つかった。
 現存する駿府城の絵図から、本丸には三つの入り口があったとされ、発見されたのはその一つとみられる。本丸入り口の遺構が見つかったのは初めて。石垣から分かる構造や大きさは、絵図から推察される虎口とほぼ一致するという。
 市歴史文化課は「城を守るための構造がしっかり造られていたことが分かる発見」と指摘している。18年度の発掘調査では、このほか豊臣秀吉が家臣に築かせたとみられる天守台跡や金箔(きんぱく)瓦が見つかっている。
 23日の見学会は、普段、立ち入れない北東の堀の底から天守台と升形虎口の石垣を見比べ、発掘調査員の解説を聞く。解説の開始時間は午前9時半、11時、午後1時半、3時の計4回で各回約30分。参加無料。小雨決行。
 問い合わせは市歴史文化課〈電054(221)1085>へ。雨天時の開催可否は発掘現場事務所〈電054(255)5866(23日のみ)へ。(政治部・内田圭美)
【静新平成31222()朝刊】

2018年11月16日金曜日

よみがえる「豊臣の駿府城」 天守外観を推理する




よみがえる「豊臣の駿府城」
天守外観を推理する
大坂城模した五重天守か
 織田信長が統一のシンボルとして1579(天正7)年に築き上げた安土城天守。これこそが史上初の五重天守だった。信長の後継者となった豊臣秀吉も信長をならい、1585(天正13)年、大坂城に五重天守を築いた。豊臣政権下では、特別な大大名にだけ五重天守造営が許されていたようで、秀吉の城以外では弟秀長の大和郡山城、五大老・毛利輝元の広島城、養女豪姫の婿・宇喜多秀家の岡山城ぐらいしか見当たらない。
 今回発見された「豊臣の駿府城」は天守台の規模からその特別な五重天守が想定される。さらに政権中枢の実力者以外に許可されなかった豊臣一門と同様の金箔(きんぱく)瓦まで使用され、まさに特別な役割を持つ天守だった。
 では、その姿形を考えてみたい。関ケ原合戦以前の天守であるため、「望楼型天守」と呼ばれる安土城に起源をもつ古式な形式は確実だ。その基本構造は、入母屋造(いりもやづくり)の大屋根に物見と呼ばれる望楼を載せた建物で、現存する彦根城や犬山城天守がこの形式の代表だ。
 駿府城の巨大天守台には、巨大な2階建ての入母屋造が想定される。その屋根に3階建ての望楼を載せた天守で、広島城天守とほぼ同じ構造であろう。高さは広島城の約26㍍より高く、徳川の駿府城の約34㍍より低いはずである。なぜなら豊臣天守を凌駕(りょうが)することが家康の狙いだつたからに他ならない。従って、現存する姫路城天守の約32㍍が最も近い高さになろう。
 外観は、同時期に築かれ戦前まで残っていた岡山城(1597年完成)と広島城(1598年完成)天守の姿がヒントになる。両天守の壁は黒漆塗りの下見板(したみいた)が張られ、軒先と(しゃちほこ)が金色に輝いていた。最上階には格式を上げるための装飾的華頭(かとう)(まど)を採用。広島城天守最上階には、さらに重要な飾りの「廻縁」が設けられていたが、不等辺の天守台を持つ岡山城では設置が困難だったようで見られない。
 もう一つ、重要な資料が嫡男中村一忠が築いた米子城天守だ。規模こそ四重だが、やはり下見板張りの外観で、当初は最上階に廻縁が設けられていた。破風(はふ)は千鳥破風と唐破風が見られるため、駿府城にも採用されていた可能性が高い。こうした特徴を重ね合わせると、豪華さでは劣るもののまるで大坂城天守のようだ。豊臣政権は大坂城を模した天守を築き上げ、徳川に無言の圧力をかけたのである。(加藤理文・日本城郭協会理事)
【静新平成301116()夕刊】




2018年11月10日土曜日

よみがえる豊臣の駿府城


よみがえる豊臣の駿府城
天守台から見える戦略 
徳川抑えるランドマーク
 平成最後の年に突如、「豊臣の駿府城の天守台」が地上に姿を現した。予想もしなかった展開に、多くの人が度肝を抜かれたことだろう。そこで発掘調査でこれまでに分かった事実から、豊臣の城の真の姿について考察してみたい。
 天守台は石垣の特徴や遺構とともに出土した金箔(きんぱく)瓦から、1590(天正18)年に秀吉から駿府支配を託された中村一氏時代が確実だ。従って、一氏が城主であった同年から転封する1600(慶長5)年の間に造られたことになる。諸記録や周辺の状況から完成は文禄年間(15931596)中と言える。
 改めて、調査で確認できた規模を検証しよう。南北約37㍍×東西約33㍍だが、上部数㍍が破壊されていた。石垣の高さは地下に埋まった部分を含め1015㍍が想定される。関ケ原合戦前の石垣で最も高いのは岡山城本丸の約16㍍で、毛利輝元の広島城天守台が約12㍍だった。そう考えれば破壊を受けた石垣の高さは最大でも5㍍程度になる。それによって天守台も若干狭まり、1階部分の平面は南北35㍍×東西30㍍ほどと見るのが妥当だろう。
 ちなみにわが国最大規模の床面積を誇る城は3代将軍徳川家光が築いた江戸城で約38㍍×34㍍。次いで名古屋城の約37㍍×33㍍になる。現存する天守台では姫路城の約27㍍×20㍍が最大だ。

 同様に、豊臣政権下の代表的天守台を見ておこう。秀吉が築いた大坂城天守台は幕府大工頭を務めた中井家が所有する「本丸図」から約30㍍×28㍍と判明している。伏見城は「諸国古城之図」の記録に約36㍍×32㍍とある。秀吉の弟・秀長が築いた大和郡山城の天守台は約18㍍×16㍍、120万石の太守、毛利輝元築城の広島城でも約24㍍×18㍍でしかなかった。これらと比べると「豊臣駿府城」天守台の巨大さが際立つ。一氏はわずか14万石。大大名に遠く及ばない石高で広島城より巨大な天守台を築けるはずがない。豊臣政権が領国の東端と、関東に移した徳川家康を抑える目的で総力を結集し、豪華(ごうか)絢爛(けんらん)な駿府城を完成させたとしか思えないのだ。規模は伏見城に及ばないものの、100万石の大大名の天守を凌駕し、わが国5指に入るほどの規模を誇っていた。
 関東の(のど)元を押さえる駿府に築かれた巨大天守は、徳川家に敵対行為の無謀なことを知らしめるランドマークだったのだ。
(加藤理文・日本城郭協会理事)

 ※かとう・まさふみ1958年、浜松市生まれ。博士(文学)。袋井市立浅羽中学校教諭。20168月に始まった駿府城発掘調査に関する専門家による視察及び意見交換メンバーの一人。袋井市在住。
【静新平成30119()夕刊】

2018年10月25日木曜日

駿府城「幻の城」歴史的価値、今後は



駿府城「幻の城」歴史的価値、今後は
 静岡市葵区の駿府城発掘調査で、豊臣秀吉が家臣中村一氏に築かせた城の遺構が見つかった。「幻の城」とされていた城で、徳川家康だけでなく、秀吉も駿府城を重視していたことを示す発見だという。その歴史的価値や今後の整備について2人の専門家に聞いた。



小和田哲雄静大名誉教授
発掘進めば今川館跡も
 ーなぜ「幻の城」とされていたのか。
 「中村時代の駿府城については、これまで史料も遺構もなかった。力がない中村が家康の立派な城を壊してまた城を造るとは、普通は考えないため、これまでは真新しい(家康が築いた)駿府城に、そのまま入ったのだろうと理解していた。しかし、実際には秀吉が城を築かせていた」
 ー秀吉は、なぜ金箔瓦を使った城を築いたと考えられるか。
 「家康を相当意識して脅威に思っていたからこそ、豊臣勢力の最前線である駿府に金箔瓦の城を築かせたのだろう。これまでは秀吉が圧倒的な力を持っていたという認識だったが、秀吉の思いは必ずしもそうではなかったことが分かった」
 ー大御所時代の家康が、秀吉の城の上に駿府城を築いたことも明らかになった。
 「家康は豊臣の色を消したかったから、秀吉の城を埋めたと考えられる。だから秀吉も家康5カ国時代(駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の国の大名時代)の城を壊し、その上に金箔瓦の城を建てた可能性が出てきた。さらに掘れば、5カ国時代の城や今川館の痕跡が見つかるだろう」
 ー市は将来の天守閣再建を目指している。
 「個人的には反対。天守閣の姿は正確な史料がなく分かつていない。石垣部分など史実に忠実な復元には反対しないが、想像では建ててほしくない」
(聞き手=政治部・内田圭美)

加藤理文(日本城郭協会理事)さん
 2天守台見せる整備を
 ー今回の発見は日本城郭史において、どのような価値があるか。
 「織豊期の天守台が建造当時の姿で残っているのは全国初の事例。同時代の天守台は全国にあるが、いずれも江戸時代に改修されている。今回の天守台は地下に埋まっていたため、家康が大改修を開始した1607年よりも前の姿が保たれている。秀吉が築かせた城の様子や史料が少ない駿府城主・中村一氏の解明につながる、歴史を変える発見だ」
 ー秀吉にとっての駿府城の位置づけは。
 「大量の金箔瓦と巨大な石垣は『大阪城の分身ここにあり』という力の入れようだ。一氏個人ではなく、政権が築かせた城と考えるのが自然で、豊臣領国にとって極めて重要な場所だった」
 ー金箔瓦を使用した意図は。
 「金箔瓦は当初、豊臣一族以外は使えなかった。次第に政権を支える大名にも使用許可を与えるようになり、特に徳川領国周辺の城に使われた。駿府城は豊臣領国の東端にあり、徳川に高い技術力や経済力を見せつけ、抵抗を抑止する役割を担ったと考えられる」
 ー今後の整備万針についての考えは。
 「二つの時代、しかも家康と秀吉が関わった天守台が同じ場所に存在するのは日本で唯一、駿府城だけ。復元や埋め立てはせず、現存する二つの天守台を同時に見せられる整備を望む。『本物』をいかに残すかが大事だ」(聞き手=政治部・山下奈津美)
【静新平成301025()朝刊】