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2020年8月7日金曜日

◆沼津ヒラキ物語⑥「干物加工と伝統技術」その1 加藤雅功


◆沼津ヒラキ物語⑥
「干物加工と伝統技術」その1 加藤雅功
 ●マアジとムロアジ 地場産業のヒラキ加工が農家の副業的なものから開始されたことを、下河原地区の萌芽(ほうが)期としてすでに語ったが、その後の専業化の過程で、地元の「開き屋」の大半はマアジ(真鰺)が中心で、ムロアジ(ムロ鰺)を扱う家は少なかった。元々狩野川河口(川口)の「河口港」として発展した我入道(がにゅうどう)の漁船によるサバ()の水揚げに支えられた側面が強く、またサバとともにムロアジも多く獲れて、大正半ばまでは沼津のヒラキ(開き干し)の魚種ではサバとムロアジが先行していたことを知る。
 やがて「小田原方式」の導入でマアジが中心となるが、ムロアジの塩汁(しょしるづ)漬けでの加工はムロを扱う商店で営々と引き継がれ、親類の木塚(サス上)や山本(ヤマ本(ほん))などの身近な家で伝統の味が保たれてきた。ムロアジの開きでは八丈島・新島のクサヤが
有名だが、魚の腸(わた)(内臓)などを入れた塩汁に潰けてから干したヒモノで、焼くと独特な強い臭みがある。伊豆諸島特産の干物で、体形が細長いクサヤムロ(アオムロ)などを加工している。乾燥度の高い「上干(じょうぼ)し」は保存が利くが堅かった。マムロもアオムロに次いで原料魚となるが、魚肉の蛋白質(たんぱくしつ)を分解し、「クサヤ菌」が旨味を強くして出来た「クサヤの原液」は意外にも塩度は8(8%)ほどの甘い液であり、一方、普通の開き干しの塩水は18度から20度位の塩分濃度の辛さになっている。
 やはり若い液では、液を腐らせないためには塩を余分に使わざるを得ず、あのアミノ酸の独特な風味の「クサヤの香り」は出せない。あのアンモニアの臭気に耐えながら、数十年経ると「クサヤ液」も本物となる。
 近所の田代さんの貴重で高価な「クサヤ液」を移入する体験談として、「かつて八丈島から参考にする目的で、クサヤの原液(クサヤ液)を運んできたが、途中で腐って失敗してしまった。」と残念そうに話した。
 干物(塩干魚)でも夏などは漬け桶(おけ)に氷を入れて調整をするが、塩汁は温度管理も難しく、微生物(細菌群)で発酵が行われ、微妙なアミノ酸バランスが保たれるが腐敗細菌の増殖で腐りやすい。撹拌(かくはん)をしたり、時には塩を加えて、魚肉部分に対して浸透圧を活(い)かしつつ、一方で旨味(うまみ)成分の流出も防ぐ必要がある。
 食塩を中心とした調味液の塩汁に漬けることによって、調味するとともに水分活性を下げ、雑菌の繁殖を抑制する。食塩以外については各商店により独自の工夫がされている。なお、最近では塩汁の濃度は低くなる傾向があり、以前は1524%程度であったが、現在では1020%となっている。また塩汁に2040分間漬けるが、この時間は原料の魚の質にも左右され、経験に裏打ちされた判断が的確に行われている。
 現在、塩汁は5℃程度の低温で循環させるなどして管理され、1ヶ月程度使用できる。塩漬けでは1回ごとに新しい塩水に全替えするのと、汚れを取り除いて少し「増(ま)し塩(じお)」しながら数回使うのとがある。艶(つや)は1回ごとが良く、45回使うと塩味に「軟(やわ)らかさ」が増すが、それ以上では臭みが出てしまう。
 商店によっては加熱処理して汚れと滓(かす)を凝固・沈殿させたり、漉(こす)したりして取り除き、「きれいで澄(す)んだ塩水」に蓄え、塩汁にして長期に使用した。魚への塩の浸透が平均になり、また良く浸透する長所がある。さらに風味や、軟らかな味が生まれ、荒い塩味の辛さよりも甘さを期待し、拘(こだわ)りと工夫を独自に追求した。塩の大切な時代の伝統であったが、今では行う人も少なくなってしまった。ムロが中心であった木塚(サス上)では、伯父(おじ)の弘さんが八丈島で「コンチ製」と呼んだ方法で、外の竈(かまど)で薪(まき)を焼(く)べながら塩汁を煮立てていた姿(昭和30年代)が、今も脳裏に強く焼き付いている。
 ムロアジの干物の独特な歯応(はごた)え、弾力感は捨てがたいものがある。個人的には、あっさりしたマアジの味覚も好きだが、ムロアジ類の「開き」の身の凝縮した旨味もまた味わい深い。ムロアジは血合いが多く、「脂(あぶら)のり」が少ないため、干物にするのが一般的である。かつては近海の伊豆諸島で大量に獲れ、今では和歌山以南で獲れたムロアジは鮮魚(なま)で沼津に多く入荷して、「ムロ開き干し」として関東各地に送られる。
 研究熱心だった近所の田代さんは若い頃、沼津のライバルの「小田原の開き」の実力を確認するべく、早川の小田原漁港周辺の加工場を訪れている。小田原方式の製法の本格的な技術導入を図った沼津だが、小田原から後に沼津へ講習所も移転してだいぶ経(た)った戦後、マアジの干物の「品定め」を現地で実施した。その結果、相模湾で獲れるマアジの小粒さもあったが、干物の品位を比較して「これならば絶対負けないそとの確証を得て、自信を強くして沼津に帰って来た。」と私に語った。アジの干物を専門的に取り扱う「ひもの加工組合」設立以前の出来事で、業者の「小田原に続け、追い越せ」の心意気や研究の熱意さが感じられる。
 ●製造過程からの特色 今では一般的な「腹開き」に対して、古くから加工生産されてきた干物は、武家社会では縁起を担いで、切腹につながる腹を切ることや戦で負ける兜(かぶと)割りに通じる頭を割ることが禁句とされてきた。この頭を残す背開きの「小田原開き」では、細長い紡錘形の魚体をもつカマス・サヨリ・サンマなど、全国各地でその姿を残している。西日本でも長崎などのアマダイは「背開き」で、「色物塩干品」ゆえに黄赤色の色調の退色に気を使っている。なお静岡県の興津鯛(おきつだい)で有名なアマダイは腹開きであった。
古くに鰺開乾(あじひらさぼし)と記した「アジ開き干し」はアジを腹開きにして、塩水に浸して干したものであり、日本の食卓に並ぷ最もポピュラーなおかずの一つで、海辺の観光地のお土産としてすぐに思い浮かべる品物である。近年では消費者の嗜好(しこう)の変化から、塩味の薄いものが好まれる傾向にあり、昭和30年代半ばは塩分3%であったのに、40年近く後には1.7%程度となっている。
 なお、すでに生産が減少傾向にあった平成14年当時のアジの塩干品生産量は、静岡県が4割強程度となっており、千葉、神奈川、茨城、三重などが続いていた。
 原料魚のアジはある程脂肪がのっているものが好まれ、脂肪量が7%から16%位の原料が使われているが、10%以上のものが良質と言われている。かつてマアジ、マルアジ(アオアジ)、ムロァジなどが使われていたが、現在ではマアジとヨーロッパマアジとになっており、その他ムロアジが多少ある程度である。
 マアジは東シナ海や五島(ごとう)列島、対馬(つしま)近海産(長崎、(はまだ)佐賀県唐津(からつ)、福岡で水揚げ)や日本海の境港(さかいみなと)、浜田、千葉県の銚子(ちょうし)などで水揚げされた天然魚が主に用いられており、養殖魚はあまり使われない。ヨーロッパマアジは昭和50年代前半から使われ始め、安定的に供給される利点がある。国内産のマアジの漁獲量が減少し、補完関係をより強めて、今や国外産が上回っている。平成22年度の沼津の干物業者に対するアンケート結果でも、アジの仕入れ先の約46%が国内で、約54%が国外であった。また国外産の70%近くを北海のオランダが占め、国内では90%近くを九州産が占めていた。
原料魚は水揚げ後、-38℃前後で急速凍結し搬送される。「水氷(みずごおり)」は最近では使われなくなっており、ヨーロッパアジも漁獲直後に急速凍結されて日本に輸出される。搬送された原料は一30℃以下で保管されている。以前塩汁に潰けて解凍することもあったが、今では流水によって解凍し、解凍機を用いる所もある。
 ★アジ加工の全工程 原料を「解凍」して「内臓処理」し「開き」の作業をする。その後に乾燥・凍結して出荷する。
 ①「内臓処理・開き」の工程は全て手作業で行う。内臓や鰓(えら)を除去して腹開きにする。一部の大きなサイズでは「割裁機」などの機械により二枚に開く。かつて天日干しの時代に魚の肛門部分に黄色く脂(あぶら)が残りやすく}蝿(はえ)が卵を産む結果、蛆(うじ)が湧(わ)くことがあって、衛生上で注意を要する「ハエ取り」には腐心した。 ②「前洗浄・血抜き」では水槽内で洗浄する。洗浄では、残った内臓などの除去を行うが、骨の際(きわ)に付着する汚れ部分をブラシで取り去る作業は厄介(やっかい)で、身に傷を付けやすく、製品とするには品質が落ちる。洗浄後は十分に「水切り」を行う。その後 ③「塩汁浸漬(ひたしづけ)」をして、調味する。水分活性を下げ、雑菌の繁殖を抑制する。 ④「後洗浄」浸潰後に水槽内で洗
浄する。塩抜きの意図もあり、再び「水切り」を行う。 ⑤「乾燥」温風の乾燥機が使われる。乾燥することによっても水分活性を下げ、保存性が増すとともに色合い()が良くなる。
 ⑥「放冷」の後に ⑦「凍結」急速凍結をする。 ⑧「包装」「真空パック」 ⑨「出荷」市場の場合は発泡スチロール箱に20枚程度を詰めて出荷する。小売店に直接卸す場合はトレーなどに23枚入れて包装する。冷蔵車を使って出荷される。
 以上の全工程を踏まえると、機械化も一部で進んだが、各商店ごとの創意工夫がそこには詰まっている。
(沼津市歴史民俗資料館だより2020.6,25発行 VoL45 №1(通巻226)編集・発行 〒4100822 沼津市下香貫島郷2802-1沼津御用邸記念公園内沼津市歴史民俗資料館TEL O55-932-6266FAX O55-934-2436

2020年5月17日日曜日

◆沼津ヒラキ物語⑤ 「発展期にむけての途(みち)」 加藤雅功


◆沼津ヒラキ物語⑤
「発展期にむけての途(みち)」その3
 加藤雅功

 ●干し場の情景 下河原しもがわら)の入町((いりちょうコ)から南部の新玉(あらたま)神社に至るヒラキ加工業者は、元々広い桑畑や田圃(たんぼ)を所有しており、ヒラキの「干し場」の確保にはそれほど苦労しなかった。初期には足場を造って葦簀(よしず)に干したが、後に畳大(3x6)の木枠に網を張り、開いた魚を日光に肉面を見せて並べた。網の目は2cm位で、水切れの良さと裏側(皮目)の風通しの良さを狙った「干し枠」の干し蒸籠(せいるう)が使われた。このセイロの上にヒラキを干し、トロ箱などの空箱を支えに、斜めに立て掛けるようになった。日光が良く当たり、風通しが良く、しかも砂などが被(かぶ)らないような場所を選んで干し上げる。
 最初は渋糸などを張った網だったが、汚れるのですぐに金網になった。ただし塩気で錆(さ)びるので、ビニール被覆やナイロン製も試されたが、今ではステンレス製が普及している。沼津では新規格の金網のセイロが昭和20年代末に導入され、取り扱い易い現在のような3x2,5尺余りの規格に変更されて定着している。
 コンクリート敷きの「ヒラキ場」を兼ねた場合もあるが、このヒラキ加工の作業場に接した場所の「干し場」では、杭(くい)や木製のウマ(脚立)などで足場を造り、水平に置かれた2本の角材(干し竿(さお))の上に干しセイロを何枚か広げる。次に塩汁(しょしる)桶で一定時間漬(つ)け込んだヒラキを水洗い後、漬け蒸籠から干しセイロ上に移し、開いた魚を短時間ながら丁寧に並べていた。昭和30年代半ばに至るまで、外での作業ゆえに、夏場などは上に長大な葦簀を張って日陰を作り、下には玉砂利などを敷き詰めて、地面からの照り返しを防いでいた。
 沼津で普及した干し方は、干し場所を立体的に使うことであった。伊東などでも一部で太い竹が使われたが、強度や耐久性のなさなどの点から、本場の沼津では角材
の普及が進んだ。傾斜角30度前後で、斜めに立てた角材の桟(さん)へ、セイロの干し枠を両手で持って運び、並列で組まれた複数の桟がある中で、2本の角材(1.5x3)の桟に5枚か6枚の干しセイロが押し上げられていた。時には屋根の上の桟にも並び、手仕事ならではの成果ゆえに、「日干しの開き」のその広がりは壮観であった。
 また土地が狭小な場合、少し離れた場所に干し場を新たに確保する家もあり、当時はヒラキで重い干しセイロを何枚もリヤカーに積んで引っ張ったり、開いた魚を漬け蒸籠ごと重ねてリヤカーで大量に運ぶなど、その準備に大わらわであった。このように昭和30年代前半は、外での大仕事が待ち構えていた。
 今のような作業過程で乾燥室を設置し、重油や電気での温風乾燥機の導入が進む30年代半ば以前は、天候に大きく左右される「天日干し」が主流の時代であった。急な雨の際、折角ヒラキを干したセイロを家族総出で取り込むのは、大変な労力を要した。セイロを20枚近く積み上げ、前もって用意したブリキの覆いでブタをする光景は日常的であった。元々晴天時でさえ「開き」の魚が満載のセイロを干す際も6枚ほどを押し上げ、さらにセイロを取り込む際も、桟から落下しないように慎重に滑らせて下ろす作業は重労働であった。
 とくに梅雨時の「干し場」では、一旦セイロを重ねて待ち構えることもあり、欠かせない繰り返し作業のために、急な俄雨(にわかあめ)などがあると慌てふためき、喧騒(けんモう)の中で「取り込み作業」が続いていた。
 その後、ヒラキ製品の選別と箱詰め作業が待っていた。水平に置いた2本の「干し竿」の上で、干しセイロが何枚も並べられ、「五合(ごあわ)せ」か「四合(しあわ)せ」用の薄い木箱に30枚から40枚位を、包装用の白紙(しらっかみ)へと丁寧に揃えて並べる作業が、前もってある程度選別して置き、基準に合わない大きな「体(てい)たらく」(ドタラク)をはねながらテキパキと行われていた。さすが欠陥品は少なかったが、技術面で製品の個人差があり、開き包丁での肉・骨への角度、当て方は工夫が必要で、時に包丁の柄の親指の当たる部分を削ったりもした。
 「切(き)り板(ばん)」の上で開く際に、魚への包丁の当て方から、各部位への切り込み方、さらに腸(わた)・鰓(えら)を引き出す、身を開く、顎(あご)を割(さ)く、頭を割るまでの一連の動きは経験で早く上手になった。魚の骨に当てることもあり、包丁の切れ味が悪くなると砥石(といし)を3つ用いて研ぐ必要があるが、摩粍(まもう)も早くて1年半位で交換した。ヒラキ包丁は地元の「正秀」製のほか、行商の業者が扱ったものとがある。アジ以外ではより大きな包丁も使用する。
 箱詰めの後、規定の高さの木箱を4段から6段、サンマなどでは8段を重ねた。そして横に固定用の細い桟の板を縦に2本ずつ打ち付け、蓋(ふた)に数量(枚数・合せ数) と出荷先の市場名を記し、表面には沼津の名と屋号など「荷印」を筆で墨を浸けて書くか、ブリキなどの金属製の「刷板」(すりばん)を当てて黒墨の着いたブラシで擦(す)ることをした。その後は荒縄で二重に縛って梱包(こんぽう)作業を終了した。
 秋口以降は日暮れ前から、干し場全体を大型の投光器で照らして、黙々とヒラキの選別や箱詰め作業、さらには出荷作業が進められていた。

 ●千本・港湾地区への拡大 この時期になると下河原地区の男衆(おとこし)は魚を買い付ける仲買の資格を得たり、ヒラキ加工の商売の若(わか)い衆(し)が「見習い」から独立したり、さらに結婚を契機に分家したりして、より広い土地を求める必要に迫られていた。当時港湾整備の掘削(くっさく)に伴う砂利(バラス)が大量に得られ、旧水田の低湿地の埋め立て造成地が拡大した結果、総称で後に地区名となった「港湾」に進出した親類・縁者の商店も多く、港湾周辺では新興のヒラキ団地的な様相を呈していった。元の下河原地区から発展して、千本・港湾地区にまでヒラキ加工が拡大する中で、さらに水産加工業として専業化か進んでいった。
 下河原からの分家や縁者の多い千本中町・千本東町付近での事例を挙げると、昭和30年代半ば頃には、区画整理地の一画に個人で斡旋(あっせん)された砂利を1m弱盛り土し、150坪前後の土地を求め、自宅の家屋に接して加工場と広い干し場を確保するのが一般的であった。またボーリング掘削で「掘り抜き井戸」を得て、モーターポンプで常時汲み上げ、数段に分けた広い洗浄用の「池船」(いけふね)に直接流す方式は、下河原地区と同様であった。
 黄瀬川状地の扇端(せんたん)付近に当たる地域では、鉄管で打ち抜いた「掘り抜き井戸」が千本松下町から常盤(ときわ)町・緑町・下河原町にかけての住宅街に数多く分布し、今も土管が高く積まれて使用されている。南部の工業地域でも被圧地下水による「自噴」の後、水位低下でポンプの器械力c電力に頼るのは早かった。ヒラキ加工では開き(内臓除去)の後の洗浄、塩汁潰けやその後の「洗い」に大量の水を必要とする。黄瀬川起源の地(かじめようすい)下水の利用はやがて深井戸となり。その後過剰揚水により「地下水の塩水化」も深刻となるが、当時は資源の枯渇にはまだ関心が薄かった。ただし商店個々でのポンプアップは、当然経費もかさむことになる。
 あくまで基本は家族労働ながらも業務拡大で忙しくなると、ヒラキ加工の「開き手」や「干し手」の必要から、手伝う女性(「女衆」(おんなし))を確保する必要が出てきて、その後、慢性的な人手不足は続くことになる。
 またヒラキの生産拡大ブームの中で、流通に不可欠な木箱が大量に不足し始めた。梅雨時に限らず、ヒラキ製品の出荷用の浅い木箱を釘とカナヅチで組み立てる女衆の「箱打ち作業」が、個々の商店の作業用倉庫からトントンと軽快に響いているのが常であった。杉などの木の香りや高く重ねた浅箱の残映は、やがて断熱効果が優れ、衛生的で流通面でも利便性の高い、軽量の発泡スチロール箱に代替されていった。
【沼津市歴史民俗資料館資料館だよりVol44No.4(通巻225)2020.3.25

2020年3月13日金曜日

◆沼津ヒラキ物語④「発展期にむけての途(みち)加藤雅功


◆沼津ヒラキ物語④
「発展期にむけての途(みち)」その2
加藤雅功
●小田原屋がもたらしたもの 大正6(1917)に小田原から沼津の下河原(しもがわら)の入町(いりちう)に移り住んだ飯沼佐太郎氏(山さ)は、「小田原方式」の開き加工を開始した。祖父の実家の近所であるが、干物の製造・出荷さらには鮮魚の仲買を行った時期は大正12年か13年の頃であった。その特徴とするものは①包丁で腸(はらわた)を出す、②塩汁(しょしゐ)を使用、③生干し・天日乾燥であり、この「小田原方式」が次第に地元へと普及し、「下河原の農家の人々の副業となり、ひらき加工の商売の道が順次開かれていった。」()という。
 下河原の人々は「小田原屋」が製品化して干物を売り出す話を知り、「ひらきならば家内工業として成り立つことを知り、夏は養蚕業、春と秋はひらき加工業として歩み出した。」()という。駿河湾(するがわん)や伊豆近海では夏にアジなどが採れず、養蚕に勤(いそ)しむ中で半農半漁の生活が維持できることを知ったほか、東京という市場への出荷が「小田原屋」により進められた点は、この地域に大きなインパクトを与えた。やがて東京市場へ向けては杉山源太郎氏の杉源商店(カネ井桁(いげた))など数軒が、ヒラキの製造を研究して出荷するようになった。
 成立条件としては、新たな移住者によりもたらされた技術であるが、原料のアジなどは元々宮町の魚市場に水揚げされて供給できており、消費者の住む東京という巨大な市場にも近い点等から定着は早かった。ただし当時は通年の営業は無理であり、3月から5月と10月から12月にかけての年2回で、計6ヶ月間に限定されていた。その一方で夏・冬の6ヶ月は原料の「原魚」が水揚げされず、仕事にはならなかった。
 安定的にヒラキを出荷できるようになるには、戦後の昭和26年近くを待たなければならなかった。戦時下での物価統制の時期から戦後においてもGHQによる統制が続き、昭和25年に全面撤廃となるまで、その間は築地や横浜の市場で修行を積む人々も多かった。身近においては親類の加藤角次郎(ヤマ加)の伯父が「築地市場」で仲買や小売りの経験を、木塚誠一郎(カネ上)の叔父が「横浜市場」で同様に5年近くの経験を積んでいる。
●粗かった洗浄 今では想像することすらできないが、川で洗濯ならぬ「魚洗い」をしていた事実である。狩野川下流は大半が柿田川の湧水起源ゆえに清流をなし、流量も多くてヒラキの洗いが普通に行われていた。
旧魚河岸(うおがし)のあった永代橋の南側から下河原にかけては、かつて数多くの洪水制御の「出し」があった。宮町(みやちょう)の小松屋付近の「宮町の出し」、下河原では相沢米店横の「相沢の出し」,木村家横の「カネ庄の出し」、旧花月旅館の「花月の出し」、新玉(あらたま)神社北側の「新玉の出し」などである。2つの「出し」の間は水の流れが一時的に弱まって静かになり、加工した後の濯(すす)ぎ、「魚の洗い場」としては好都合な環境でもあった。
また、地形的に見ても、宮町から下河原にかけての狩野川右岸は川の「攻撃斜面」側のために少し深く、淵を想像すれば分かるように小型の船舶が「出し」の間に接岸できるように、「河港(かこう)」に適する状況であった。大型の船は無理にしても、喫水の浅い船ならば遡上(そじょう)することも出来ていた。
堤防整備以前の昭和10年代の話として、「ひらき加工業者は、樽(たる)に入れた魚を長籠(ながかご)に移し変え、長籠の両方の紐(ひも)を持ち、ごしごし洗ったので傷む魚が多かった。」()という。マグロ荷揚げの籠で、腸(わた)を出して汚れた「開き」を洗浄する仕方は、大変扱いが粗かったことを知る。その当時は一部で掘り抜きの共同井戸もあったが、数軒で利用するために水産加工業が拡大する中では、絶対量は慢性的に不足していた。
 戦後になると、製品として仕上げるため、改善に向けての努力が成された。親類の岩本善作氏(ハチボシ)が桶(おけ)を船大工に作らせて、蒸籠(せいろ)という道具を使用する現在の「池船(いけふね)」や「塩汁桶(しょしるおけ)」に漬ける形式を導入している。従来の傷みやすい竹製の丸寵ではなく、角型の「漬け蒸籠」を用いている点が先駆的であった。
●戦後の拡大期 戦争の影響下での制限で低迷した時期もあった、昭和25年末からは需要に合わせた出荷が可能となり、新しい港湾の魚市場には蛇松線の支線の「臨港線」が延伸して、貨車で原料魚が運ばれて来ていた。当時はマグロを入れる大きなトロ箱が使われ、やがてトラック輸送の時代にはより小型の木箱となり一般的な「半切り箱」(半トロ箱)は「ハントロ」と呼ぶように、深さも半分の浅いトロ箱が中心となった。「トロ」は二輪の手押し車のトロッコによる運搬の名残で、重ねて積める長細い堅牢な箱であった。
 小田原のヒラキを塩水に漬けて天日干しをする方式の導入で、伊豆の棒受網(ぼううけあみ)や巾着網(きんちゃくあみ)で大量に獲れるとともに、従来のマアジに限らず、沼津港の漁船から水揚げされるムロ鰺(あじ)を加工するヒラキ業者が次第に増加して行った。マアジが中心であったが、サバやサンマ、イワシなど多種の原料を加工して、臨機応変にやって苦境を乗り越え、やがて名実ともに「日本一のぬまづの干物」として評価される道が開かれて行った。

 戦前において、沼津のヒラキは「開き干し」を好む関東でも、主に東京・横浜方面に出荷していたが、生産鼠が増加するに従い、関東一円では商品を捌(さば)ききれ
なくなっていた。そのために当時の「沼津魚仲間組合」が北関東の両毛線方面から三陸に向けて、さらに名古屋・京都・大阪方面に至るまで、販路拡大の宣伝活動などを行い、その努力が実を結び、やがて全国各地へと販路が広がっていった。
 立地条件や地域的展開を見た場合、ヒラキを「天日干し」に頼っていた時代にあっても、天日乾燥ゆえに外気の風による乾燥(風乾)は数時間でよかった。雨天や曇天などの場合は別として、風や日照時間に左右されることが少なく、夏などの太陽の強い日差しの下では、むしろ身が焼けて商品価値が下がる傾向さえあった。また台風が近付く夏から秋の南風が吹くころも、「西の風」の強い冬季にあっても「干し蒸籠」に並べたヒラキは皮目が網に付着するので落ちることさえ少なく、それほどの実害はなかった。
 ただし原料の魚の水揚げが少ない時期である、梅雨から8月の盛夏の時季の沼津地方は、高温多湿で雨も多く、塩汁が腐敗しやすかった。
 ():『沼津魚仲買商組合三十年史』から引用(加藤角次郎氏の談話より)
(「資料館だより」通巻224号 2019・12・25発行)