東海道線の開通
鉄道東海道にはしる
東京から京都までを鉄道で結ぶことは、すでに明治二年に政府により決定されていたが、東海道にするか中山道にするかということは、なかなかきまらなかった。結局「東海道は船便が多いので汽車の利用者が少ないだろう」という理由と、「戦争がおこると艦砲射撃にさらされ、上陸した敵軍に利用される」という軍部の強い意見で、明治一六年三月に、中山道に決定された。そのため静岡県民の間で東海道鉄道敷設請願運動がおこり、県会議員は率先して東海道鉄道敷設発起人同盟会を組織し、愛知県・神奈川県の有志にもはたらきかけて請願運動を進めた。そのころ静岡県令の奈良原??が工部省大書記官に就任したことは、請願するのにも好都合だった。
一方、実際に測量してみると中山道の方は碓氷(うすい)・木曽地方が山また山でトンネルを多くつくらねばならず、経費は川が多い東海道よりももっと多くかかることがわかった。しかも東海道の方が時問も早いし、沿線には多くの町があるので、営業成績もあがることが予想された。そこで、鉄道局長は、中山道案を一番強く主張していた軍部の実力者である山県有朋(やまがたありとも)に事情を説明して承諾を求め、伊藤博文首相の了解を得て、明治一九年七月、裏海道に鉄道を建設することに決定した。二三年には帝国議会が開か九るので、それに問にあうように完成することを目標として工事は進められた。工事にあたって、三島宿の多くの住民は鉄道が箱根を通ることを要望したが、当時の技術ではトンネルをつくることも急な勾配を越えることもむずかしかったので、国府津から御殿場・沼津へ至る路線となった。これが現在の御殿場線である。
静岡以西では焼津から榛原・相良(さがら)を通り、海岸線を浜松に至る路線が有力であったが、金谷の平口唯一郎ら各宿場有志は鉄道が島田・金谷・掛川・袋井を通るようにと請願した。しかし、宿屋や茶屋などは「汽車が通るとお客が泊らなくなる」とか「わらじが売れなくなる」といって反対した。また海岸を汽車が通ることに対しては「汽車の音で魚が逃げる」という声もあり、畑の中を通ることには「汽車の震動で農作物の結実が悪くなる」など、現在の常識では考えられないような反対の声も多かった。このように鉄道が自分たちの町を通ることについては賛否両論があったが、結局、島田.金谷などの宿駅を通ることに決定され、工事は進められた。工事が非常に短期問でおこなわれたため、多くの労働者が必要であり、日当も高かったので、人力車の車夫や製茶職人が線路工夫に早変わりして他産業の業者も人集めに困ったという。また沿線の飲食店、料理屋は大いに繁盛し、これを「鉄道景気」とよんだ。このようにして敷設された路線をみると、吉原.藤枝・見付などは路線からはずされているが、これは宿屋だの反対とか、上地の買い上げをめぐってゴタゴタがあったためで、吉原は鈴川に(現在の吉原駅)、見付は中泉に駅をとられたのである。また藤枝の町の場合は宇津谷峠を通過するには工事費が多くかかることと、距離的に遠くなることなどが路線からはずされた駅因である。
明治二二年四月、天竜川鉄橋工事や大崩トンネル工事のためおくれていた静岡・浜松問の鉄道が開通したことにより、東京・京都間は全部開通した。しかし当時汽車は、まだ一般の人々にはぜいたくなものであった。明治二四年当時、鉄道料金は上・中・下に区分され、料金は一マイル(約一・六㌔)つき上等三銭・中等二銭・下等一銭で、新橋~静岡問は下等で一円二十銭(当時米は一石は三円から六円)所要時間は約六時間半を要し、上り下りとも一日に四、五本しかなかった。なお浜松~新橋間は一円六十八銭・沼津~新橋間は八十六銭、静岡ー浜松問は四十八銭、静岡ー沼津問は三十四銭であった(いずれも下等料金)。
(「静岡県の百年」昭和四十三年十二月発行 静岡県 竹山祐太朗知事)
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