2015年2月21日土曜日

幕臣の移住と沼津 四方一瀰

慶応四年幕臣西周の沼津移住そのころの話
四方一
 1・幕臣の移住と沼津
 今年は徳川家康生誕四百年とかで静岡県内ではアレヤコレヤといろいろな催しを計画しているようである。その家康が開いた強大な幕府が倒れて絶対的な徳川のお殿様の時代から平民が社会の表舞台に躍り出るという、封建社会から近代国家家へとわが国の歴史の中でもかつてなかった明治維新という未曾有の社会変動を体験した大事件であった。ややもすれば沼津とは遠く離れた江戸の出来事と思いがちである。だがこの変革は沼津の街や住民の生活をも揺るがした大事件であった。
 慶応四(一八六八)年一月、王政復古の大号令が発せられ、五月、徳川氏は七〇万石の大名となって駿河・遠江・三河に移封され、七月、それまで沼津を領主として支配してきた水野藩が上総の菊間に国替となり沼津の一〇五軒の侍小屋や五六棟の惣長屋に住んでいた二三六九人の藩士やその家族はあわただしく沼津を後にして菊間へ向った。旧幕臣は新無政府にとなるか、農工商の道を選ぶか、あるいは徳川氏に従って無緑移住の道のいずれかを選ぶことが許されたがおおよそ五四〇〇人の旧幕臣が一大名となった徳川氏にしたがって無緑移住の道を選んだ。明治二年五月に調査作成された「駿河国沼津政表」にれば、当時の家数は一二六〇戸、男三二九六人女三四八一人の合計六七七七人てあったという。沼津移住の士族の数はハッキリしないが明治四年十月の陸軍局の調べによれば沼津移住士族は二一三五人といわれる。しかし移住士族のなかには間もなく帰郷したり転出する者も多かったので、当初この数より多くの者が移住してきたものと考えられる。この数知には家族数が含まれているのか否か明らかではない沼津の住人の半数に近い士族やその家族が沼津に移住してきたのであろう。

 これらの士族の居住地は、一概には言えないが、現在の沼津駅前さんさん通り辺りに沼津のお城があり、「あまねガード」の南、今の上本通りの通りはお城のお濠りで、その西側の城内・添地・西条の辺りが士族の居住地であった。そしてアーケード街(町方町-町人の町)以南が沼津の宿場町で商人をはじめ庶民が住み、士族と町民はおおよそ住み分けられていたが、上本通りの西側お濠に面したところは片端といわれ、兵学校の先生たちが住み、「あまねガード」を上り切ったところには兵学校頭取(校長)西周(あまね)の家があった。
(つづく)






















 2・移住士族の生活
 慶応四年七月、水野藩の藩士が千葉県の菊間に移住し、その歳の九月八日には慶応四年は明治元年に改元された。その二日後の九月十日には陸軍頭より旧幕臣の家族は十月末までに江戸を引き払って沼津に移るよう命じられた。今まで住んでいた家の始末から家財道具一切の引っ越しで、沼津の町や人々の生活を巻き込んだ慌ただしい転出転入であった。
 西周は十月十九日の早暁、妻舛子や川上冬崖と浅草を発ち、途中川崎・程ヶ谷・大磯・箱根畑宿・三島に宿泊して二十四日に沼津に到着し、入居する家の都合もあり、その日は本町の近江屋に投宿し翌日には通横町の旅館小松屋に移り、さらにその翌日の二十六日には藩からの命により三枚橋の豪商鈴木與兵衛の隠居所に移り、しばらくのそこに滞在し、十一月八日に西・大築の家族は鈴木の家を出て沼津の城、すなわち兵学校の西北角、あまねガード南の十九番屋敷にはいった。日時も限られた慌ただしい移住で、頭取の西家でもほとんど着のみ着のままで家財は船で送った長持一棹・箪笥二棹・水風呂一つ・水瓶一つ・畳建具三〇枚であった、すでに幕末の動乱で資産はまったく失い、移住後の生活は蓄えもなく、それゆえ兵学校頭取に任用されても御役金六百両ではまさに「焼石ニ水」で「渇々相暮申候」が精一杯で、日々家財道具を買いもとめてはいるが容易に生活に必要な道具諸品などをとり揃えるいたらない、と舛子夫人は長兄に報告している
 頭取の西家でもこんな状況であるから一般の士族は推して知るべしであった。
 移住士族は添地・西条だけでは収容仕切れないため静浦・金岡・愛鷹など隣接する地域の民家や寺院に同居し、さらに門池の北辺や愛鷹山の笹ヶ窪、長泉の長窪に簡素な住居を建てて移り住んだが、東西両椎路に約五〇戸、東沢田に約一〇〇戸、小林岡一色に約五〇戸、その他元長窪・万野原など合せて約一、二〇〇戸に及んだといわれる。それでもまかなうことができないで快く借室借家を提供されるよう各家を訪問勧誘にまめり中川重平は志下の長老の農家を借り、夫人と娘一人と乳母母子を抱えた同僚と同家に同居した。
また矢吹恒蔵は上香貫中原あった水野藩の長屋に割付けられた。狭いのはまだ致し方なかったとはいえ。山中庄治が割り当てられた東椎路の農家は大分破損しており雨漏りも酷いので移転を申請し三年九月にようやく西澤田に転居ができたという状況であった。

 3.   サムライと町民
  このような沼津の町の構成からみると慌ただしい、しかも大がかりな人や家族・物資の出入りがあったにせよもっとも変動の激しかったのは城西の士族居住地におおむね限定され、沼津の宿場の町組み、住民の生活の仕組みを大きく混乱させたものとは思われない。とはいえ狭い水野藩の城下町は、久しく沼津の藩士として食料・衣服・生活用品の購入を通して、あるいは俳句サロンの形勢など城下町の住民と藩士たちの交流も長い年月のうちに形作られていたであろう・。しかし新来の静岡藩の士族は政権の中核にあった幕臣としての気位いも高く來沼まもない両者のあいだにはとけ込めない、大きな社会的文化的確執をもたらしたものとおもわれる。
 事実、まだ移住騒動のさ中の九月に沼津の陸軍頭はつぎのような「城下並宿駅にて酒食禁制の事」の触れを士族に出して、言動に注意を促している。すなわち、
 今般御城下に被差置候陸軍局役々組々も御城下は勿論最寄宿駅等へ罷出酒店并旅籠宿に おゐて酒食いたし候儀は一切不相成候事
 一銘々日用の諸品買入等之為何方へ罷出候共穏便に取引いたし御威光ケ間敷義決而致間  敷候事一宿駅其外夜中無提灯にて徘徊いたし候義一切不相成候事
 一御城下之義は街道筋之義にも有之別而旅人等へ対し聊不都合之義無之様可被心得候事
   右之趣役々組中え不洩様可被相触候事
 士族のなかには買い物にあたって町民に横柄な態度で値切りや応接の態度に言いがかりをつけることのないよう厳重に注意し、とりわけ居酒屋などでの酒の勢いで町人に居丈高かな態度をとるなど不祥事を心配して宿場での飲食を一切禁止している。また夜中の真っ暗な折徘徊して不安を抱かせることを厳禁するなど、殊の外町民への対応に配慮している。
  このような事態は武士の特権意識もさることながら、特権階級からの転落や前途への不安、極度な生活の経済的不安がもたらしものもあり、移住後、かなり見られた士族たちの行動でり、お触れを出さざるを得なかった実態があったものとおもわれる。しかしこのお触れの趣旨は徹底されず、二十七日にはいかがわしき行動をとるものはもってのほかのことでといただした上厳重に処罰する布告を改めて出さなければならなかつた。

 4. 士族と町民との融和策
  静岡藩も移住によってすさんでいた士族と町民との間の融和策を図らなければならなかった。移住によってすさんでいた士族たちに気晴らしの機会を与えたのは愛鷹山の馬狩りであった。古来、愛鷹山には放牧場がありかつては近くの農民を責子(せこ)〔勢子〕に充てていたが士族の移住後は農民に代えてその子弟をあてた。その数は二三千人で徐々に牧場を取り囲み、鉦の合図で声を立てて馬を囲いに追込んだ。追込んだのちは伯楽が馬に乗って囲いの中を乗り回し馬の善し悪しを鑑定して良馬を競市(せりいち)に出した。近在の村々に住む士族の子弟達は早朝から愛鷹山の牧場に集まらなければならなかったが、日頃移住生活の不満が鬱積していた活力の余る壮年の者には格好の気晴らしの場であり、「最も愉快なる野外運動なれば皆悦んで出張せり」と石橋絢彦は記している。町民は見物が許された。
 さらにまた、沼津の町民とのあいだも士族の行動に対する自重・禁制策もさることながら藩が明治二年三月、西ノ条(西條)に洋式の医局を新設し、当時一般に行われたおまじない・祈祷、あるいは怪しげな診療に対して最新の西洋医学の診療を行い、士族のみならず一般町民にも開放し、診療は無料、薬代は原価同様の価格とし、さらに貧しい者に対して薬代は藩で負担するなどの福祉医療をおこなったほか当時最も恐れられていた天然痘についての啓蒙的パンフレット「種痘辨」を配ばり、あるいは陸軍医局は百合・大根・生薑・青海苔・いさき・かさごなど一〇〇にのぼる健康に良い食品のリスト「能き物」を配布して町民の健康増進や保健衛生に役立てている。また、兵学校附属の医学所では町医者の子弟で望む者には医学所で医学修業の道をひらくなど士族と町民との融和がはかられた。

  さらに、当時の士族と平民が机を並べて勉強すること武士の面子(めんつ)にもかかわることではありほとんど行われなかったが、金岡には静岡藩の学校澤田学問所が設けられ、士族の子供にまじって金岡の農民の子どもたちが勉強をするなど、士族と平民の垣根をくずして四民平等の気運を開いていくことになった。


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