「沼津海軍工廠跡地の開拓」
平成26年12月20日
沼津市立図書館4階視聴覚ホール
講師:永江雅和専修大学教授
当日資料集
戦争に翻弄された海軍工廠用地
数奇な運命たどり住民衝突も
沼津史談会は、第9回「沼津ふるさとづくり塾」市史講座をこのほど市立図書館視聴覚ホールで開き、約六十人が聴講。専修大学教授の永江雅和氏が「沼津海軍工廠跡地の開拓」と題して、戦後直後の沼津駅北地区について、戦争に翻弄(ほんろう)された数奇な運命をたどった様子を話した。
金岡独立論争の要因に
史談会市史講座で専大教授が解説
海軍工廠の設立 一九四二(昭和十七)年、沼津駅北側に軍需品生産拠点として海軍工廠の設立計画が進められた。交通が便利で開発可能な土地が広がっていたのが選定
理由だった。
用地は、北は現在の神田町(金岡中付近)から沼北町(誠恵高付近)をつなぐライン、南は泉町(沼津聴覚特別支援学校付近)から双葉町(フジクラ沼津工場付近)にかけてのライン、東は学園通り、西は新中川(囚人堀)で囲まれた地域に相当する。
土地所有者だった当時の金岡村の村民を対象に、海軍当局による用地買収が行がわれた。交渉と言っても一方的なもので、村民達は印鑑持参で金岡国民学校(現金岡小)に集められ契約会を迫られ、しかも買収代金の支払いが遅れたため、農地を手放した村民には生活が困窮する人も出た。
終戦と土地の返還 四五(同二十)年八月の敗戦により、海軍工廠は廃止。建設時に海軍当局から「軍用地を将来開放する場合は地元の耕作農民に優先的に払下」という約束があったことから、土地を海軍に売った旧金岡村民(金岡村は終戦前年の四四年に沼津市と合併して消滅)達は、土地の返還運動を始めたが、旧軍資産はGHQ(連合国軍総司令部)によって凍結されているという理由で返還は認められなかった。
一方、工廠敷地内には周辺に住む公務員や商工業者、工員達によって家庭菜園が作られていた。旧金岡村民達は菜園耕作者に「土地の無断使用」だとして抗議したが、菜園側は、終戦時に工廠長だった中島省三郎中将から借用許可を得ている、と主張した。
四六(同二十一)年、金岡側は新たに旧軍用地を管理することになった大蔵省に対して土地の一時利用を申請したが交渉は難航。この間に菜園側とは暴力的な衝突寸前にまでなった。同年五月十八日、沼津警察署による調停が行われ、金岡側は菜園側に旧軍用地九四町歩のうち二四町八反歩を貸すことで合意した。
しかし、その後、大蔵省が金岡側の主張を認めたため、金岡側は菜園側に立ち退きを要求。菜園側は、農地の所有者を地主から小作人に転換させる農地改革事業の理念に基づいて権利を主張し、双方は対立した。
農地改革では、四五年十一月二十三日時点での耕作者に農地所有権を認めていたので、「金岡側は地主」「菜園側は小作人」と見なされる図式になった。
このため、再び暴力的衝突寸前の事態となり、沼津署が仲介する調停が四七(同二十二)年四月十八日に行われ、菜園側に貸し出す土地面積を二四町八反歩から約六町歩にすることで双方が合意した。
金岡開拓組合 四七年十月、旧軍用地の管理者が大蔵省から農林省に変わり、農林省は食糧増産のため土地を開拓者に払い下げることを決定。この方針を受け、金岡側は住民三八一人が参加する金岡開拓組合を結成し、旧軍用地の返還を受けるとともに、開拓補助金を獲得することを計画した。旧海軍工廠の土地の多くはコンクリートで舗装されるなどしていて、農地に戻すには多大の労力が必要と見込まれていた。
岳南農民組合 農林省は農業経験が豊富な者への土地払い下げを予定していたので、本来は農家ではない菜園側は不利になった。そこで菜園側は岳南農民組合を結成して団結を深めた。
四八(同二十三)年五月、農林省が金岡側を開拓者として認めると、金岡側は菜園側の耕作地までも開拓範囲と見なして工事の準備を始めた。
これに対して菜園側は、金岡側が始めた工事によって排水路が埋め立てられて洪水が発生した、国有財産である排水路石垣を金岡側が持ち去っている、などとして金岡側の非を主張。金岡開拓組合の監査を行うよう農林省に要請した。
一九四九年三月八日 金岡側と菜園側の対立は頂点に達した。金岡側は四九(同二十四)年三月八日、菜園側の土地で開拓工事を開始すると通告。同日早朝、金岡側約二百人が作業を開始しようとすると、菜園側約百二十人が工事阻止のために集結した。
睨み合いの末、農具を用いた衝突が始まり、重傷者が出る騒ぎとなった。この時、沼津署の警官隊約五十人が出動し、騒ぎは、ようやく収まった。
沼津署は双方の代表者から事情聴取を行い、中西久署長が調停に乗り出して群衆を解散させた。
最終合意 衝突後、県やGHQの担当者立ち会いのもとで調停が行われ、菜園側が土地を明け渡す代わりに金岡側は換え地二町九反歩と補償金二五万円を提供することで合意した。
その後、開拓工事は順調に進み、五五(同三十)年八月十五日、開拓地の組合員への配分が行われ、同月末に金岡開拓組合は解散した。
この間の五二(同二十七)年に旧軍用地を駐留米軍や警察予備隊(自衛隊の前身)の基地として再活用する動きがあり、海軍工廠跡地も、その候補地と見なされたが、開拓が進んでいることから断念された。
金岡独立運動 工廠跡地を巡る騒動の渦中にあった四八年八月には金岡地区を沼津市から分離させる運動が始まっている。
当時は市町村区域変更請求という制度があり、三七(同十二)年から四七年の間に行われた市町村合併に異議のある場合、住民投票の結果次第で市町村区域の変更を県知事に申請することができた。
十二月に旧金岡村区域の有権者を対象にした住民投票が行われ、独立反対派優勢との見方もあったが、賛成派が僅差で勝利し、申請が行われた。
こうした独立運動の高まりの背景には、そもそも合併への反対論があっただけでなく、工廠跡地問題での沼津市の対応への不信感もあったという。金岡側と菜園側が対立していた時期、沼津市当局も独自に払い下げ請求を大蔵省に対して行っていて、金岡側の反発を受けている。
しかし、この金岡独立の申請は四九年三月の県議会で否決された。
おわりに 海軍工廠跡地を巡る混乱を説明した永江氏は、このような旧軍用地返還問題は全国的にあったこと、実際に耕作をしている人に土地の所有権を認める農地改革が返還問題を複雑化したことなどを指摘。
また、戦争協力のために農地を奪われた金岡側、戦後の食糧難で食糧自給を迫られた菜園側、いずれも戦争の犠牲者であり、こうした図式もまた問題解決を難しくしたのではないか、とした。
(沼朝平成27年2月15日号)
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