平成27年2月21日沼津史談会「第10回沼津ふるさとづくり塾」
演題「興国寺城と武田一族」
講師:平山優先生
当日動画資料
当日静止画像集
武田一族と興国寺城資料1 平山優
1,駿東郡・富士郡と武田・葛山・御宿氏
2,河東一乱と武田・葛山・御宿氏
3,三国同盟の崩壊と武田・葛山・御宿氏
4,興国寺城をめぐる動き
5,甲相同盟の復活と駿東郡・富士郡、そして興国寺城
6,甲相同盟の崩壊と地域社会
7,沼津三枚楢築城と興国寺城
8,武田氏の城と武将の配置
9,武田氏滅亡と領国の崩壊
◎関係年表
河東一乱の発生から収束までの流れ
●天文5年(1536)●
1月、武田太郎、従五位下に叙任(歴名土代)、左京大夫任官。
3月、武田太郎、将軍足利義晴から一字の偏諱に賜り、晴信を称す。
3月17日、今川氏輝と弟彦五郎とともに急死。享年24歳。
→嗣子なく、二人の弟栴岳承芳(せんがくしょうほう)(後の義元)と玄広恵探(げんこうえたん)の抗争が勃発(花蔵:はなぐらの乱)
5月25日、駿府での恵探派福島党が敗北。
6月8日、北条氏綱が恵探を討ち取り、今川義元が新当主となった。
●天文6年(1537)●
2月10日、武田信虎の娘(定恵院殿)と今川義元が結婚(武田・今川同盟成立)
→この婚儀に反対していた北条氏綱は、26日出陣して駿河に侵攻、3月4日に吉
原まで進軍し、富士郡・駿東郡を制圧(河東一乱の開始)
●天文7年(1538)●
この年、武田信虎と北条氏綱の抗争続く。この年、晴信の嫡男義信(よしのぶ)誕生。
●天文8年(1539)●
この年も武田氏と北条氏の争いは止まず。
●天文10年(1541)●
6月14日、武田晴信、父信虎を今川義元のもとへ追放。
7月17日に相模の北条氏綱が死去、息子氏康嗣ぐ。
●天文11年(1542》●
武田晴信の信濃侵攻始まる。
●天文13年(1544)●
1月、晴信重臣駒井高白斎と向山又七郎が甲斐国都留郡谷村の小山田信有のもとから出立し、北条氏康の家臣桑原盛正(もりまさ)と対面→関係改善に向けた外交交渉
12月、小山田信有の家臣小林宮内助らが、早雲以後は見たことがないといったという風聞が立つほど派手に着飾って、小田原に向かい氏康に対面。
●天文14年(1545)●
5月22日、信濃で小笠原軍と戦う武田軍のもとへ、今川・北条それぞれから300の援兵が到着→関係改善の環境が整う。
7月、聖護院門跡道増(しょうごいんもんぜきどうぞう)が今川・北条両氏の和睦斡旋に失敗し、帰洛。今川義元、これに怒り、善得寺(ぜんとくじ)(富士市)に出陣。
8月5日、晴信、駒井高白斎、温井丹波守を今川方に派遣。
8月11日、善得寺で晴信と義元の対面が実現。その場で、血判した誓詞が交わされ、甲駿同盟が成立、祝宴が催され、13日に晴信は甲府に帰る。
9月9日、晴信、再び出陣、板垣信方ら先鋒を大石寺(だいせきじ)(富士宮市)まで先行させる。
9月14日、行軍中の晴信に氏康の書状を届く(北条氏からの和平斡旋依頼か?)
9月16日、吉原城(富士市)に在陣し義元と対峙していた北条氏康は城を捨てて三島まで撤退。晴信、今川義元と合流し馬見塚(うまみづか)(富士官市)に布陣した。その後武田・今川軍は、18日今井見付(富士市)、19日千本松(沼津市)、20日岡官原(同)へと陣を進める。
9月19同頃、義元、長久保城(ながくぼ)(長泉町)の攻撃を開始。
10月15日、晴信、北条家臣桑原盛正のもとへ板垣信方・駒井高白斎・向山虎継の三老臣を派遣し、講和の条件を伝達。
10月22日、矢留め、関東管領山内上杉憲政・義元・氏康の誓句が晴信のもとに届けられて停戦が成立。
11月1日、長久保城に今川軍が入り、6日北条勢が退去。
→今川義元は、天文六年以来、北条氏に占拠されていた旧領の河東地域の回復に成功。
●天文15年(1546)●
この年、武田勝頼(かつより)が誕生。
三国同盟崩壊から武田信玄の死までの流れ
●永禄10年(1567)●
8月7日、武田信玄、領国内の家臣団に起請文を提出させる。
8月17日、駿河国駿東郡の国衆葛山氏元が、芹沢玄蕃允らに、甲斐への塩留によって没収した塩の納入を命じる(いわゆる塩留め)。
10月19日、東光寺(甲府市)に幽閉されていた、信玄の嫡子義信が死去した。
12月21日、今川氏真が父義元の代からの縁故を頼って、上杉輝虎と秘密交渉を開始。
●永禄11年(1568)●
2月16日、信玄、三河の徳川家康と誓詞を取り交わし、今川攻めについて同盟を結ぶ。
大井川を境にして、駿河・遠江を分け合う国分けの協定を確認。
4月15日、今川氏真、上杉氏に対し、武田義信夫人(氏真妹、嶺松院殿)の帰国にあたり、信玄の要請で氏真が誓詞を出したことを伝える。また24日には、上杉・武田・北条三氏の和睦交渉の風聞が事実かどうか尋ねた。
6月3日、信玄、上杉氏の家臣本庄繁長の反乱に呼応して北信濃に出陣
11月、今川氏と武田氏の開戦の噂がしきり。今川氏は国境を封鎖。
11月25日、氏真は上杉輝虎との間で和平を結び、輝虎に信濃への出兵を依頼。
12月6日、信玄は甲府を出陣して駿河へ侵攻、9日に大宮城(富士宮市)を攻撃した。
信玄は、氏真が輝虎と結んで信玄を滅ぼそうとしたことが、駿河へ出陣した理由であると主張している。
12月12日、氏真に、清見寺(静岡市清水区)に出陣して、薩捶山倉沢(由比町)で武田軍を迎え撃とうとするが、瀬名・朝比奈信興・葛山氏元ら、重臣の多くが武田方に寝返っため、駿府の今川館へ退却した。一方、時を同じくして、徳川家康も三河から遠江の井伊谷(浜松市)へ侵攻。
12月13日、氏真は駿府から懸川城(掛川市)へ敗走。
→北条氏康、信玄の駿河侵攻に激怒し、甲相同盟を破棄、駿河に出兵
12月中旬、信玄、駿府を焼き討ちし、興津(静岡市清水区)で北条軍と戦う。
一方、信濃からは、別働隊の秋山虎繁が、十八日に遠江国二俣(浜松市)・愛宕山(同)・見付(磐田市)へ侵攻した。
12月下旬、山西地域で抵抗を続ける今川軍と、その救援のために駿河へ出陣した北条軍により、信玄は駿河で挟撃され苦戦。氏真が入った懸川城も、頑強に抵抗。信玄は、徳川家康に懸川城を攻めるよう要請。
12月24日、北条氏と上杉氏との間で、越相同盟の交渉が始まる。
この後、半年余の間に上杉・北条双方の使者が往来し、信玄を包囲するための同盟交渉が行われた。信玄は駿河で越年。
●永禄12年(1569)●
1月4日、今川方の大原資良が守る花沢城(焼津市)を攻撃し、27日に落城させる。
1月8日、家康の抗議により、信玄は遠江へ侵攻していた秋山虎繁を信濃国伊奈(伊那市)へ撤退させる→徳川家康との関係が悪化
1月26日、信玄、薩捶山に陣取る北条氏政軍と対峙、北条軍が興津城を攻撃。
2月1日、穴山信君・葛山氏元軍が大宮城(富士宮市)を攻撃した。
3月10日、信玄は将軍足利義昭や織田信長に、上杉輝虎との和睦の仲介を依頼。
3月13日、武田軍、薩捶峠を攻撃。
4月7日、信玄は徳川家康に懸川城の攻略を促し、佐竹・里見・宇都宮氏らに、北条氏の本拠地・小田原城(小田原市)を攻めるよう要請した。
4月19日、信玄は久能(静岡市駿河区)・興津両城の城掟を定め、兵や人質を籠め置いて、信玄が駿河に戻るまで城を堅く守るよう指示した後、24日の早朝に駿河から甲斐へ撤退し、28日に甲府に帰還した。
5月6日、今川氏真と徳川家康の間で和睦が成立、氏真は懸川城を出て、15日に小田原
の北条氏康の元へ船で逃れた。
5月9日、上杉氏と北条氏との間で越相同盟が成立。
5月16日、信玄は御殿場口から駿河へ侵攻し、古沢・深沢城(御殿場市)を攻撃。
6月23日~25日、武田軍、大宮城を攻撃、26日に御厨に布陣。
7月2日、信玄、三島(三島市)を焼き討ちし、北条(伊豆の国市)で北条氏規・氏忠兄弟の軍を撃破。信玄は三島から大宮(富士宮市)へ兵を進め、翌3日に穴山信君を通じて、大宮城主の富士信忠を降伏させる。また、武田軍の別働隊が武蔵国秩父郡へ侵攻し、北条軍と戦った。
8月24日、信玄は甲府を出陣し、信濃から碓氷峠を越えて西上野へ入る。
9月、信玄は西上野から武蔵に侵入、9日に御嶽城(神川町)、10日に北条氏邦の居城鉢形城(寄居町)を攻撃した。その後、信玄は勝頼を大将として北条氏照の居城滝山城を攻め、自らは後詰めとして拝島(昭島市)に布陣。
10月1日、信玄は北条氏の本拠小田原城を包囲し、城下に放火した後、4同に撤退。6
日に相模国三増峠(愛川町・津久井町)で北条氏政・氏照・氏邦兄弟の軍を撃破。
7日に甲斐の上野原(上野原市)に帰陣。
11月22日に富士口から駿河へ侵攻、28日まで大宮城に在城した。
12月6日、信玄は蒲原城(静岡市清水区蒲原町)を攻略し、城主の北条氏信以下、城兵千余人を討ち取る。このため、薩捶樺山砦に陣取っていた北条軍は孤立したため、12日に撤退した。
12月13日、信玄は今川館に立て籠もっていた岡部正綱らを帰属させ、駿府を再占領した。駿河における戦況は武田方に有利となる。
●永禄13年(1570)=元亀元年●
2月、信玄は徳一色城(藤枝市)を攻略し、中旬まで在城した。その後、15日に清水(静岡市清水区)へ陣を移して江尻城(静岡市清水区)の普請に着手し、海賊衆の編成を行った。信玄は2月下旬に甲斐へ帰国し、武蔵・上野の北条軍を攻めた。
4月16日、信玄は駿河へ出陣し大宮城(富士宮市)に入って城を修築
5月14日、信玄は北条軍と駿河の吉原(富士市)・沼津(沼津市)で戦い、伊豆へ侵攻した後、下旬に甲府へ帰陣した。6月5日には、武蔵国御嶽城(神川町)を攻略し、城兵千余人を入れて普請を行った(戦武一五六一・三号)。
8月上旬、信玄は黄瀬川(沼津市)に布陣し、興国寺城(同)を攻める。
8月5日、勝頼・山県昌景・小山田信茂を大将とする武田軍が、北条氏規・氏忠兄弟が籠もる伊豆国韮山城(伊豆の国市)を攻撃し、城の外宿まで攻め寄せたが、城方の奮戦により撃退され、黄瀬川へ撤退。
10月8日、徳川家康が武田氏と絶縁し、越後の上杉輝虎と同盟を結ぶ。
12月12日、信玄、深沢城を攻撃した。
●元亀2年(1571)●
1月3日、信玄は攻城中の深沢城(御殿場市)に矢文を送り、興国寺城(沼津市)を攻撃。
また、黒川(甲州市)・中山(身延町)の金掘衆を使って深沢城の本丸付近まで横穴を掘らせ、開城を促した。北条氏政は救援のため10日に小田原を出陣したが、深沢城を守備していた北条綱成は、16日に武田軍に城を明け渡して退却。
→武田信玄、駿河を制圧
10月3日、北条氏康が死去、氏政は、武田氏と北条氏の同盟交渉を開始。
12月17日、武田氏と北条氏の和睦(甲相一和)が成立した。27日、武田氏と北条氏の同盟(甲相同盟)が復活し、西上野・駿河は武田領、東上野・武蔵は北条領と定められた。また、北条方が籠城していた駿河の興国寺城は武田方に引き渡され、平山城(沼津市)は破却された。
●元亀3年《1572)●
5月13日、将軍足利義昭が信玄に誓詞を送り、忠節を求める。信玄は20日に本願寺に協力することを伝えた。
7月26日、信玄は京都曼殊院門跡覚恕の斡旋により、比叡山延暦寺から僧正に叙任。
7月晦日、信玄は三河国作手城(作手村)の奥平定能に三河・遠江の所領を安堵し、味方につけた。
9月26日、山県昌景の軍勢が先陣として甲府を出陣。
10月3日、信玄、本隊を率いて甲府を出陣し、越前の朝倉義景や近江の浅井久政・長政父子に、協力して信長に対抗することを要請。また越中の勝興寺に、越中・加賀の軍勢を動員して越後の上杉謙信に対抗するよう要請。
10月10日、信玄、遠江の二俣城(浜松市)へ向けて進軍。
10月14日、美濃の岩村城(岩村町)が開城。
10月19日、信玄は徳川方の二俣城を攻撃。奥三河の山家三方衆、武田方に帰属。これに対し、信長は三千の兵を家康の援軍として派遣したが、信玄は朝倉義景や大坂の石山本願寺、伊勢長島の一向一揆などと連携して、信長を包囲する体勢を作った。
12月19日、二俣城を守備していた中根正照が武田軍に城を明け渡し、浜松へ退却。
12月22日、信玄は三方原(浜松市)で徳川家康と戦い、大勝した。この合戦には信長の援軍も参加していたが、平手汎秀をはじめ千余人が武田方に討ち取られた。
●天正1年(1573)●
4月12日、武田信玄死去、享年53歳。勝頼が家督を継ぐ。
武田勝頼の攻勢から武田氏滅亡までの流れ
●天正2年(1574)●
2月6日勝頼、美濃国明智城などを攻略。
6月中旬、勝頼、遠江国高天神城を攻略。
●天正3年(1575)●
5月21日、長篠合戦、勝頼、織田・徳川連合軍に大敗。この年、勝頼は遠江・三河・東美濃の拠点を相次いで失う。
●天正6年(1578)●
3月13日、上杉謙信急死→御館の乱勃発
5月中旬、武田勝頼、上杉景虎支援のため越後に出陣。
6月14日、上杉氏と和睦交渉中の海津城代春日虎綱死去。
7月23日、勝頼、越後本庄繁長の家臣に書状を出し、上杉景虎・景勝の和平を仲介するために春日山に在陣している旨を伝える。
8月19日、勝頼、上杉景勝に起請文を提出し、武田・上杉同盟成立。
8月20日、勝頼の仲介で上杉景勝・景虎の和平成立。
8月22日、徳川家康が駿河田中城に侵攻。
8月28日、勝頼、家康の侵攻を聞き、和平仲介を断念して帰国する。景勝・景虎の和睦は、この直後に破れる。
10月3日、勝頼、横須賀城を攻撃するが、家康の援軍により果たせず、高天神城に退く。
10月25日、勝頼、遠江より帰国する。これを受け、家康も晦日に浜松に帰陣。
●天正7年(1579)●
3月17日、上杉景勝、上杉景虎の本拠御館を攻略。
3月24日、上杉景虎が越後鮫ケ尾城で自害。御館の乱は景勝の勝利に終わる。この結果、武田・北条間の関係は決定的に悪化をすることとなる。
4月25日、勝頼、高天神城の補給に出陣。
9月3日、北条氏政が千葉邦胤に書状を送り、御館の乱以後勝頼が「敵対同前」の行動をとったと非難する。これまで我慢を重ねてきたが、勝頼が沼津に築城を始めたため、自身も対抗して伊豆で普請を開始したので、出陣をして欲しいと求める。甲相同盟がついに崩壊し、武田・北条両氏は全面戦争に突入した。
9月5日、北条・徳川同盟が成立。
9月17日、勝頼、上杉景勝、伊豆・駿河の境目に築いていた三枚橋城が完成したことを伝える。春日信達・長坂光堅等が副状を作成する。この日、徳川勢が北条氏政に呼
応して、遠江掛川城に出陣。
9月19日、駿河当目坂・用宗城が徳川家康の攻撃を受け陥落。戦火は駿府にまで及び、駿府浅間社が焼失。
9月25日、勝頼、駿府に軍勢を派遣し、家康に備える。これを受け、家康は陣を退く。
10月8日、勝頼、佐竹氏磨下の太田道誉・梶原政景父子に書状を送り、北条氏政が伊豆
三島に在陣し、泉頭に城を築いていること、勝頼自身は江尻に対陣し、佐竹義重の動きを待っていることを伝える。
10月25同、北条氏政、三島で勝頼と対陣している旨を織田信長に伝える。
11月26日、勝頼、高天神城に補給に入る。
12月9日、勝頼が伊豆を引き払い、甲府に帰陣。
●天正8年(1580)●
3月中旬、徳川軍が高天神城攻略のための取出築城を開始。以後高天神城は、長期にわたる寵城体制に入る。
3月24日勝頼、下野那須資晴に北条氏政の伊豆出陣を伝え、背後を突くよう要請する。
閏3月15日、北条氏政が深沢(現御殿場市)に出陣し、御厨一帯を放火。
閏3月17日、北条氏政が足柄(現小山町)に着陣。
4月9口、本願寺顕如が石山を退去し、紀伊雑賀へと退く。武田氏は畿内における最大の同盟国を失う。
5月3日、徳川家康が駿河田中城を攻撃し、翌日まで滞陣する。
5月5日、徳川家康が掛川に兵を退く。用宗城将朝比奈信置が追撃するも敗退。
5月下旬、三枚橋城の強化普請を開始する。
6月9日、北条氏政が兵を退く。勝頼も甲府に帰陣する。
6月17日、徳川氏の高天神包囲網完成。
6月29日、海賊衆小浜景隆に対し感状を与え、伊豆国内の中小浦を攻撃し、郷村を撃砕した功を賞する。
7月20日北条氏政が駿豆に出陣。徳川家康も浜松を出陣。
8月3日、北条氏政、伊豆の浦々に、武田方の軍船を発見次第狼煙を揚げるよう命じる。
8月19日、北条氏政が隠居し、家督を北条氏直に譲る。この家督交替は出陣中に行われるという異常なもので、織田信長との提携を視野に入れた政治判断の結果であった。
8月晦日、沼田城が開城、降伏する。
●天正9年(1581)●
1月下旬、武田勝頼、新府城築城のための人夫動員を実施。
1月25日、織田信長、水野忠重に高天神城の降伏を拒絶するよう命じる。
3月22日、高天神城落城。
3月29日、海賊衆小浜景隆等、伊豆久料浦を攻撃し、北条方の梶原備前守を討ち破る
5月、駿河藤枝・田中、徳川家康の攻撃を受ける。駿河先方衆朝比奈信置が当目に出陣し、徳川方の石川数正と戦うが、敗北する。
7月1日、徳川軍が遠江相良において取出の普請を開始。
8月28日、沼津城将曾禰河内守、勝頼に対し、北条勢が退散した旨を報ず。
8月30日、勝頼、曾禰河内守に沢田城を始め、沼津の普請を進めるよう指示。
10月27日、沼津城将曾禰河内守、北条氏の戸倉城代笠原政晴が降伏したことを注進し、加勢の派遣を求める。
10月28日、降伏した松田上総介(笠原政晴ヵ)、忠誠の証として韮山城を攻撃し、北条氏規と戦う。
10月29日、勝頼、曾禰河内守に返書を送り、戸倉城の仕置きについて指示をする。あわせて、穴山梅雪に信濃・上野衆を率いさせ、援軍として派遣したことを伝え、自身も出馬の意向を示す。
11月初旬、勝頼、駿豆国境に出陣。
11月20日、勝頼、伊豆において北条勢を攻撃するが、北条勢は陣を固めて応じず、大きな合戦にはならなかった。
11月28口、駿河興国寺表で北条勢の夜襲を受ける。
12月19口、勝頼、伊豆より帰国。
12月20日、徳川家康が松平康親に対し、駿河入国後の支配を委ねることを伝える。
12月24同、勝頼、本拠地を甲府から新府城に移す。
●天正10年(1582)●
1月、信濃の木曾義昌が織田信長に内通し謀叛を起こす。織田信長、武田領侵攻を命ず。
2月、信濃の武田方諸城、駿河の武田方諸城、次々に自落。
2月15日、北条氏政、由良成繁から武田攻めに関する情報を得る。
2月19日、織田・徳川軍の武田領侵攻を確認した北条氏も、武田攻めに参加すべくようやく動き出す。
2月20日、勝頼、上杉景勝に対し援軍を要請。北条氏は武田攻めをめぐって終日評議を行う。西上野・甲斐・駿河のいずれかに出陣することを決め、陣触れを行う。
2月21日、北条氏邦軍が、西上野三巴川で武田方と交戦。
2月25日、穴山梅雪謀叛。
2月26同、北条氏政・氏直父子が駿河に出陣し、天神ヶ尾を攻略。
2月28日、北条氏政・氏直の攻撃により、伊豆戸倉城が陥落。夜中、駿河三枚橋城が自落する。武田勢は吉原川を越えて退却するが、追撃を受ける。興国寺城も、このころ降伏か?(ただし曽根昌世が在城し続けているので、織田・徳川方より攻撃不可の指示を受けていた可能性あり)
3月1日、夜中、駿河深沢城が自落。
3月2日、信濃高遠城陥落。北条勢は吉原まで陣を進め、富士・駿東郡を制圧。
3月3日、武田勝頼が新府城に火を放ち、都留郡へ向かって退去。
3月4日、北条氏政、家康に弓を送る。
3月7日、都留郡小山田信茂が離反、勝頼、進退窮まる。
3月11日、武田勝頼・信勝、識田家臣滝川一益の攻撃を受け、田野で自害する。武田氏はここに滅亡する。
3月19日、織田信長、上諏訪に着陣。
3月29口、織田信長、武田旧領の知行割りを発表、北条氏を排除する。
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