蛇松線(上) 奈木秀幸
昨年暮れ、東京駅が開業百周年を迎え、話題となった。だが、我が沼津駅(昔は沼津停車場と呼んだ)の開業は東京駅のそれを遡ること四半世紀、明治二十二年(一八八九)二月一日のことである。こちらの方が、ずっと古い。
後に東海道本線と呼ばれることになるこの官設鉄道の建設は、当時の重要な国家プロジェクトであった。当初、中山道ルートが考えられていたが、難工事が予想されたため、工期が短縮できる東海道ルートに途中で変更された。
その中で、箱根越えについては長大なトンネル工事の技術的難しさから御殿場経由(現御殿場線)の、勾配のきついルートをとらざるを得なかった。箱根の下を貫通する丹那トンネルの開通は、昭和九年(一九三四)まで待つこととなる。
明治十九年(一八八六)十二月一日、既に廃城となっていた沼津城外濠の北側に沼津機関庫(後の機関区)が設置され、国府津ー沼津間の工事拠点となった。
今のような陸上運搬手段など無い時代である。建設資材は横浜から海路汽船で内浦湾まで運び、ここで喫水の浅い平底の艀(はしけ)に乗せ換えて狩野川河口を遡り、蛇松(現在の港大橋の袂付近)まで運び、仮設された桟橋を使って陸揚げされた。機関車も解体して運ばれ、陸揚げ後、組み立てられた。
翌明治二十年三月二十七日、沼津機関庫までの線路が出来、機関車(五号蒸気機関車)も組み立てられ、いよいよ試運転という時、まだ石炭が届いていなかったため、松薪を燃やして走った。これが静岡県内最初の鉄道「官設蛇松線」の誕生である。
蛇松の桟橋には、初めての蒸気機関車を一目見ようと多くの人々が集まり、出店も軒を連ね、さながら、お祭り騒ぎのようだったという。
蛇松線は当時の沼津の中心部を東に見ながらカーブを描いて、蛇松と沼津停車場設置場所間の約二・七㌔を単線で結んだ。沿線には、民家はまだ少なく、田畑が多かった。明治の沼津は、今からは想像もできないほどに実にコンパクトだった。
明治二十二年二月一日、東海道の鉄道建設は国府津ー御殿場ー沼津ー静岡間が開通し、これと同時に沼津停車場も開業となる。そして蛇松線は当初の目的を達し、その使命を終えた。
半ば放置され、無用の長物となりかけた明治三十一年(一八九八)、岳陽運送という会社が蛇松線を利用しての貨物輸送を願い出たため、逓信省鉄道作業局は審査の結果これを許可。翌明治三十二年六月十五日、蛇松線は運転が再開され、新たな使命を与えられることとなった。
この日、蛇松駅が正式開業し、海路を経由して陸揚げされた石油、石炭、木材等が運ばれた。その後、終戦直後まで蛇松線に変わりはなく、貨物線としての役割を担い続けた。
昭和八年(一九三三)十二月八日、新たな沼津港(現在の内港)の建設工事が始まる。それまでの港は狩野川右岸の魚町、仲町、宮町、下河原の辺りにかけてあったのだが、水深が浅く、大型船は接岸できなかった。そこで河口に新港を建設することとなったのである。
港は昭和十二年(一九三七)五月三十一日に竣工したものの、周辺にはまだ何も出来ておらず、実際に機能するのは終戦後のことである。
蛇松線沿線の千本緑町、常盤町、千本東町、千本中町、千本西町、千本港町等は耕地整理により直線的な道路が整備されることで、それまでの小字名を廃して昭和十二年から十七年(一九四二)にかけて、それぞれ成立。また、蛇松町、春日町、蓼原町等も町域が変わったが、以前の小字名を引き継いだうえで新たに成立した。(つづく)
(千本東町)
(沼朝平成27年2月10日号)
蛇松線(下) 奈木秀幸
昭和二十一年(一九四六)十一月二日、沼津港(現内港)開港祝賀式と臨港線開通式が行われた。
臨港線とは、現在の蛇松緑道お祭り広場西側で分岐し、港まで新たに造られた路線のことである。分岐地点には線路を切り替える手動の、通称ダルマポイント(転轍器)があり、普段は南京錠で施錠されていた。
翌二十二年三月一日、蛇松線は国鉄沼津港線と改称し、蛇松駅が内港東側に移転改称され、沼津港駅となった。移転前の駅も、引き続き構内側線として廃止時まで使用された。
蛇松線から沼津港線に改称した後、沼津港からは鮮魚が京浜方面に向けて運ばれた。また、旧蛇松駅では石油や鉄屑等が運ばれた。
昭和二十年代には宮町や下河原にあった多くの干物加工業者が沼津港周辺に移転してきた。西伊豆方面からの旅客が宿泊する旅館も何軒もできた。
沼津港は沼津駅が陸の玄関口であるのに対して海の玄関口と呼ばれた。沿線では市街地の拡大に伴って次第に住宅も増え、交差する道路の交通量も増えていった。
いつしか沼津の中心市街地を走ることとなってしまった沼津港線は平面交差の踏切ばかりで、自動車との事故も頻発するようになっていく。ことに旧国道一号や旧東海道と交差する踏切では機関車の方が一時停止して道を譲ったという。
貨物輸送は鉄道輸送からトラック輸送主流の時代になっていく。昭和四十五年(一九七〇)には蒸気機関車からディーゼル機関車に替わった。次第に邪魔者扱いされることになっていく沼津港線は、ついに八十七年余の歴史を閉じることとなった。
昭和四十九年(一九七四)八月三十一日、臨時列車が運行され、この日をもって国鉄沼津港線は廃止となった。この列車は「さよなら沼津港線」と書かれたヘッドマークを付け、開通以来、初めて客車(旧型二両)を連結し、DE11型ディーゼル機関車が牽引して地元の老人達を乗せて走った。記念切符(硬券)が発行され、記念品として手ぬぐいも配られた。
名称変更後も、地元では沼津港線と呼ぶ人は誰もいない。廃線後は昭和五十一年(一九七六)、沼津市に払い下げられ、後に白銀町から狩野川河口の蛇松町までの約一・八㌔が遊歩道「蛇松緑道」として整備され、現在に至っている。
春には桜が満開となる。今も沿線の地元自治会や町内会によって清掃が行われ、大切にされている。蛇松線は廃線から既に四十年が経過した。(おわり)
(千本東町)
(沼朝平成27年2月11日号)
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