芹沢光治良ゆかりの地を訪ねてその5
父常春と楊原村 芹沢守
『人間の運命』は芹沢光治良の代表作であり、その第一巻「父と子」は昭和三十七年に出版された。
明治から昭和までの日本の歩いた道を感じさせる大河小説の主人公は森次郎、その歩みは芹沢光治良の実体験に基づく創作である。
「その昔、この地方に定住していたアイヌ族が、…この世の天国だとうたったために、ここを駿河の国ーアイヌ語で天国と、呼ぶのだと」と作品は書き出され、「甲斐や相模の山岳地帯に割拠した武士が、初めてこの地方に侵入した時、風光は明媚、気候は温暖、天産は豊富、住人は温和だから、この地は天国だと感じて、武将の家臣が武器をすてて、この土地に土着したのかもしれない」と歴史の先生に語らせている。
芹沢光治良は明治二十九年五月四日、駿東郡楊原村我入道に生まれた。家は沼津の海岸に一定の縄張りを持つ津元で、代々一族で漁業を営んできた網元の家長が祖父常吉である。
屋敷が村の入り口東一番地にあったので家号を「ハズレ」と言い、常吉の長男として明治五年二月に父親常晴が生まれた。常晴は裕福に育てられ、五歳で駿東郡第五学区楊原村立小学道生舎に入学し、八年間学んで明治十七年に卒業した。常晴は網元の後継者で、楊原村役場に勤めた。
明治二十二年、祖父常吉がリウマチを患い病んでいたので、駿東郡大岡村から評判になっていた神様の話を聴き、岳東講元の鈴木半次郎師に祈願して救(たす)けてもらったのが契機で、芹沢家の一族は明治二十三年、天理教に入信した。
若い常晴は新しい教えを熱心に学び、しばらくすると鈴木購元宅に住み込んで病人たすけの弟子入りをした。
他方、光治良の母親はるは、明治九年四月二日近藤精一郎の三女として大岡村下石田に生まれたが、同村の有馬忠七の養女として育てられた。はる女十四歳の冬の頃より養母に連れられて鈴木講元の所へ通い、天理教の教えを聞いて熱心に信仰した。
明治二十五年の春に鈴木講元の勧めで、常晴二十一歳、はる十六歳は結婚し、岳東教会の事務所に住み込み、生活を始めた。翌年十月に常晴は悪性皮癬(ひぜん)の病気にかかったので実家の我入道へ帰って養生し、常晴の生涯を神様のご用に捧げることを家族一同が心定めて鈴木講元に祈願してもらい、命が救かった。
明治二十七年には長男真一が生まれ、神様との約束により翌年三月に芹沢家の屋敷内南側に楊原出張所が設立、常晴が初代担任となった。明治二十九年五月に二男光治良が誕生。この頃「ハズレ」の芹沢家は親族二十人程に加えて、常晴に助けられて信仰する人達も二~三十人集まって賑やかに振る舞う教会だった。
明治三十三年の春から沼津町城内片端
(通称五藤松=現在の沼津駅南口前、桃中軒周辺)の土地を借りて、我入道から神殿建物を移築し沼津出張所を設置。芹沢常晴一家五人も移り住み、他の六軒の布教師家族と共に紙漉(す)きの内職をして赤貧の生活を送ることとなった。
この時、四歳の光治良少年は我入道の祖父母の家に預けられて育てられたことが、人間の運命の始まりである。
我入道は大正十三年二月冬の夜、火災が発生し、西風によって村の大半が焼失した。村の復興に際し、道路が碁盤の目様に整理され、「ハズレ」の屋敷も分離されたが、芹沢光治良生誕の碑が建つ土地に大正十三年に建てられた楊原分教会の古い写真=右=が残っている。
(芹沢光治良兄弟の孫、天理教楊原分教会会長、我入道)
(沼朝平成27年1月30日号)
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