2011年10月14日金曜日

資生堂明治年表時代

資生堂明治時代年表
1872(明治5)年
 9月(旧暦8月)に資生堂が、日本最初の洋風調剤薬局として出雲町16番地(現在の銀座7丁目)で創立される、経営者は福原有信。福原は1865(慶応元)年に幕府医学所に入って西洋薬学を学び、その翌年に医学所中司薬に起用された。1869(明治2)年に東京大病院の中司薬に、1871(明治4)年には海軍病院薬局長になるが、1872年2月に海軍病院を辞して、本町1丁目に西洋薬舗会社の資生堂を開業し、併せて薬局を開いている。10月(旧暦9月)に新橋・横浜間に鉄道が開通する。この年に海軍下士官の常服がセーラー服になった。
 1874(明治7)年
7月、銀座煉瓦街は下水道が設置されほぼ完成。強制立ち退きしていた出雲町1番地の1階に資生堂薬周を移し、2階で回陽医院を開設する。12月、京橋・銀座間の街路にガス燈を点火。西洋薬舗会社の資生堂はこの年に解散した。
 1877明治10)年
 1月、西南戦争の発端となる海軍造船所占領事件が起きる。9月、西南戦争が終結。この年に資生堂は事業経営が苦しくなり、回陽医院を閉鎖して、出雲町1番地の家屋を譲渡する。資生堂薬局は出雲町16番地の居宅に移した。
 1879(明治12)年
 鎌倉河岸に製薬工場として東京製薬社を設立。翌年に「神令水]・「清女散」「金水散」「蒼生膏」「愛花錠」などの薬を発売する。
1884(明治17)年
大日本製薬会社が設立され、福原有信は専務取締役に就任する。東京製薬社は閉鎖した。資生堂薬局はペプシネ飴を発売する。福原信三は有信の三男として、前年に生れている。
 1885(明治18)年
 9月、東京師範学校女子部が洋服を制服として採用する。宮城県の知新女学校でも洋服を制服に。東京女子高等師範学校では生徒を束髪にした。
 1888(明治21)年
 1月、資生堂が日本で最初の煉歯磨「福原衛生歯磨石鹸」を発売し、2年後の第3回内国勧業博覧会で受賞。この年に福原有信は帝国生命保険会社を設立して理事員に就任し、3年後の1891年に専務取締役になる。
 1890(明治23)年
 10月、大阪の長瀬商店が「花王石鹸」を発売する。
 1892(明治25)年
 出雲町1番地の家屋を買い戻す。福原有信が大日本製薬会社の専務取締役を辞任した。翌1893年に帝国生命保険株式会社の社長に就任する。
 1893(明治26)年
 資生堂が日本初のビタミン薬「脚気丸」を発売する。
 1894(明治27)年
 8月、日清戦争が始まり、翌年4月に日清講和条約、三国干渉。この年に千疋屋が開業する。
 1896(明治29)年
 7月、神田の小林富次郎商店が「獅子印はみがきライオン」を発売する。
 1897(明治30)年
 資生堂が化粧品の製造を開始して、「オイデルミン」「コラキン玉椿」「メラゼリン柳糸香」を発売する。この年に絹糸の輸出額が輸入額を超える。
 1898(明治31)年
 資生堂が「アネモシン春風山」「イリアンチン春の雪」「エチオンしののめ」「オイトリキシン花かつら」「高等ねりおしろい」「フロミネン住の江」「ラウリン花たちばな」を発売する。
1900(明治33)年
4月、有毒性着色料取締規則が公布され、化粧品の鉛使用が禁止される。6月、福原有信がヨーロッパに渡り、各国の生命保険事業を視察しながらパリ万国博覧会を見物。さらにアメリカに渡り、ドラッグストアのソーダー・ファウンテンを見る。II月、鳩山春子・山脇房子らが少女服改良会を設立。
1902(明治35)年
1月、日英同盟協約に調印。7月、資生堂がソーダー・ファウテン設けて、ソーダ水とアイスクリームの製造販売を行う。これが資生堂パーラーの前身である。
1904(明治37)年
2月、日露戦争が始まる。
1905(明治38)年
3月、京橋で遠藤波津子が理容館を開業して美顔術を導入。7月、女性の髪型で203高地まげが流行する。8月、第2回日英同盟協約に調印。9月、日露講和条約(ポーツマス条約)に調印。三越呉服店が輸入化化粧品の販売開始。神田で洋服専門の洋裁学校が設立される。この年に資生堂は「エリノイン花の露」を発売。
1906(明治39)年
4月、中山太陽堂が「クラブ洗粉」を、平尾賛平商店が「レート乳白化粧水」を発売する。この年に福原信三が千葉医学専門学校薬学科を卒業して、アメリカのコロンビア大学薬学部に入学。2年後の1908年の夏にプラシッド湖畔で画家の川島理一郎と知り合い、以後交友関係を結ぶ。資生堂が日本で最初の肌色白粉となる「かえで(黄色白粉)」「はな(肉色白粉)」を発売。
 1907(明治40)年
 この年に女性の髪型で七分三分髪が流行する。資生堂は商品「花かつら」を「花椿」と、「住の江」を「八雲」と、「はな」を「やよひ」と改称した。「花椿」という言葉の最初の使用である。
 1909(明治42)年
 この年にホフマンがアイロン機械の特許を取得する。フォークが一般家庭に普及する。
 1910(明治43)年
 6月、丸見屋がミツワ石鹸を発売。8月、韓国併合に関する日韓条約調印。この年に福原信三がコロンビア大学薬学部を卒業して、ニューヨークの薬品店に勤務。銀座の洋品店主の関口源太郎が子供既成服を製造して百貨店に納入。
 1911(明治44)年
 2月、日本は関税自主権を初めて確立。パリではパンタロンとキュロットスカートが流行。5月、ライオン歯磨本舗がチューブ入り歯磨を発売する。7月、セーラー型の子供服・女子服の流行が始まる。9月、平塚らいてうらが『青鞜』を創刊する。この年に福原信三がニューヨーク郊外のヨンカースにある化粧品製造工場に勤務。
 1912(明治45・大正1)年
 4月、東京実践女子学校が制服を定める。この年にマリー・ルイズの巴里院(美容院)が開業。福原信三がヨーロッパで美術館を巡り歩く。
(「資生堂という文化装置」和田博文著)

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