2022年10月9日日曜日

 源頼家 浜悠人 【沼朝令和4年10月9日(日)寄稿文】

 





 源頼家 浜悠人

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」もいよいよ佳境に入った。

 鎌倉幕府二代将軍源頼家は頼朝の嫡男で母は北条政子である。生まれは寿永元年(一一八二)八月十二日で幼名を万寿と言い、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。政子が懐妊した際、頼朝は安産祈願のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛(だんかずら=葛石を積んで一段と高くした路)を造り、頼朝みずから監督した。

 建久六年(一一九五)二月、頼朝は政子と十三歳の頼家、十七歳の大姫を伴い上洛した。頼家は六月三日と二十四日に参内し、京都で頼朝の後継者としての披露が行われた。

 建久八年、頼家は十六歳で従五位上、右近衛権少将に叙任され、生まれながらの鎌倉殿は武芸の達人としても成長した。建久十年、父頼朝が急死、十八歳で家督を相続、名実ともに二代鎌倉殿となり、三年半後には征夷大将軍となった。

 頼家が家督を相続して三カ月後の四月には北条氏ら有力御家人により十三人の合議制が敷かれ、頼家が直(じか)に訴訟を聴断(訴えを聞いて裁くこと)することは停止された。これに反発した頼家は小笠原長経、比企三郎ら近習五人を指名し、彼等でなければ自分への目通りを許さず、これに手向かってはならないと命じた。

 合議制の設立から半年後の十月、侍所長官の梶原景時が追放され、頼家は景時を救うことが出来なかった。

 建仁三年(一二〇三)、頼家は弟、実朝の乳母にあたる阿波局の夫、阿野全成を謀反の罪で逮捕、殺害した。阿波局も逮捕しようとしたが、阿波局の姉でもある政子が引き渡しを拒否した。

 頼家は七月半ば過ぎに急病にかかり、八月末に危篤状態に陥った。この間、頼家が存命中にもかかわらず、弟、実朝を征夷大将軍に擁立する動きがあった。九月、北条時政は比企能員を謀殺し、比企一族を滅ぼした。

 頼家は病状が回復し、病気中の事件を知り激怒、時政討伐を命じるが従う者はなく、九月、却(かえ)って鎌倉殿の地位を追われ、実朝が新たに鎌倉殿になった。頼家は修善寺に護送され、翌年の元久元年(一二〇四)、北条氏の手兵により殺害された。享年二十二歳。

 ところで頼朝死去後の鎌倉の大きな流れは二代将軍頼家の後ろ盾である比企一族と三代将軍実朝をかついだ北条一族との権力争いと考えられている。

 先日、暑い盛りに修善寺を訪ねた。修善寺には幽閉され殺された頼家の供養のため、政子が建てた指月殿と呼ばれる墓所がある。指月とは経典を意味した語とあった。

 明治の俳人であり歌人の正岡子規は、この地に幽閉され悲しい最期を遂げた、頼朝の弟の源範頼と頼朝の子、源頼家を偲ぴ

 此の里に悲しきものの二つあり

 範頼の墓と頼家の墓とと詠んでいる。

 私は沼津に近い伊豆修善寺の丘に立ち、遙か遠い鎌倉時代の将軍や武将に思いを馳せたのである。

 (歌人、下一丁田)

【沼朝令和4109日(日)寄稿文】




2022年10月6日木曜日

富嶽資料館所蔵 古文書 「申渡覚」水野沼津藩時代

 




注:現代語訳 茂木 克己氏(しげきかつみ)・出身沼津/沼津東高卒

(沼津史談会 鈴木隆義・長谷川徹氏友人)

【注釈】古文書の年代か「未六月」のみで不祥である。但し、文言の「殿様跡目相続…質素倹約の儀…長続きする…縫殿助」から推測すると老中松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革を想定する。「未六月」「殿様の跡目相続」「倹約令が長続き」から考えると天保期に3人の藩主(3代忠義・4代忠武・5代忠良)が代わっている。このことから断定できるのは、天保六年六月の古文書といえる。  注釈:沼津史談会 飯田




2022年9月26日月曜日

鎌倉だより 三木 卓 9月  洋学都市駿河 知的凝集力示す

 

鎌倉だより 三木 卓 9

 洋学都市駿河 知的凝集力示す



 目下、大相撲の秋場所中である、今場所おどろいたのは、静岡出身の翠富士が前頭の筆頭に昇進していたことだ。静岡のおすもうでここまで来た力士は、ぼくの記憶にはない。あっぱれである。

 この文章を読んでいただけるときは、もう場所は終っている。前頭の筆頭というのはきびしい地位で、横綱以下の強い力士に当らなければならないから、大変だが、若さの弾力でなんとか勝ちこし、番付を維持、あるいは昇進してほしい。

 出だしでは、大関の正代をやぶる殊勲があったが、今は五分五分だ。期待しているぞ。

 十両上位にいる本県出身の熱海富士も出だし快調、がんばってくれ。来場所はぜひ入幕してほしい。

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 沼津から「沼津史談」七三号(沼津郷土史研究談話会)がとどいた。創立六〇周年記念号で杉亨二・駿河国人別調特集である。

 ぼくは不勉強なので、杉亨二という人物の存在を知らなかった。杉さんは江戸末期に育ち、明治のはじめに日本初の人口センサスを行った人物である。かれが調査しまとめた「沼津政表」「原政表」は、当時は大きな理解を得られなかったが、やがて日本全土で行われる一億人をこえる規模の国勢調査となった。いわば先駆者である。

 杉さんの親族である松宮克昌さんの「杉亨二の生きた時代と沼津との縁」によると、かれはそもそも長崎の出身である。当時長崎は西欧文明の幕府への流入点であり、若い学問だった統計学もその一つだった。

 そこで学んだ杉さんは、やがて幕府洋学問所である「蕃書調所」の教授手伝いとなった。

 しかし、大政奉還となり、徳川の最後の将軍慶喜は、遠江・駿河に転封されるという大変なことがおこる。家臣は身のふり方をきめなくてはならないが、いっしょに無禄覚悟で駿河に移住するものも多かった。杉さんもそれに加わり、こうして沼津との縁ができた。かれは沼津兵学校でフランス語文法と万国地理を担当する。調査の足場も沼津にできた。

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 森博美さんの「わが国統計史における駿河国人別調の意義」によると、「調査への協力度は頗(すこぶ)る高かった」という。江尻、沼津、原、清水港と調査はすすめられ、駿府についても「九十六箇町」をしらべた。

 その調査表を見ると、夫婦・こども・使用人、生国・年齢・家持借家・田畑山林・出稼・入稼・宗旨というように書きこむ欄があり、一家の人間が一人ものであるかどうかと精緻をきわめる。

 森さんは、幕府時代の人別帳は名主のもとに台帳として保管されているが、その情報が、実際の人□統計の出発点となっていた、という。これに対して杉さんの駿河国調査では「集計処理過程においても依然として個体情報としての情報特性を維持している」と指摘している。

 樺山紘一さん「杉亨二と西周、または旧幕の知性たち」は、慶喜とともに移動したそういう杉さんを含んだ知識人たちが、静岡学間所と沼津兵学校へ結集したことを指摘している。樺山さんはいう。

 「沼津と静岡。このふたつの徳川家の学校は、ともに当時の洋学者の粋を集め、教授、学生をあわせ数百人の陣容をもって明治初年を代表する機関となった。実際には、現実の政局に翻弄され、一八六八年から、七二、三年までのごく短期間、機能しただけであるが、しかしその数年のあいだに駿河の二都市が示した知的凝集力は、おどろくべきものがある。疑いもなく、日本最大の洋学都市であった」

 すごい時代だったのだ。その前には長崎があって、日本の飛躍を準備していた。杉亨二さんは直接的にその知的嵐のなかで己れの志を実現したすごい人々の一人だったのである。(作家、鎌倉市在住)

【静新令和4926日(月)朝刊「文化 芸術」】