2014年8月20日水曜日

「沼津市発展のために」:シルク紳士まかり通る

「沼津市発展のために」:シルク紳士まかり通る
 ・石橋治郎八著・昭和371220日発行

 戦災で横浜の家を焼かれてから、私は沼津の千本浜にある別荘に住んでいた。昭和二十五年のある日、その別荘に元沼津市長だった名取栄一さんが訪ねてきた。
名取さんは突然こんなことを言い出した。「石橋さん、あなたはこの沼津に敷地二万坪、建坪が六千五百坪もある大工場を個人で経営している。沼津商工会議所の会頭たる資格は十分にある。ぜひ次の会頭を引き受けてくれませんか」
 私には突然の話だったが、近く沼津商工会議所会頭の改選があるので、名取さんの一派が私を推そうというのである。その時の会頭は駿河銀行頭取の岡野豪夫氏で、岡野さんは再出馬を表明していたのに対し、名取一派がそれに反対して私を担ぎ出したわけなのであった。
 私はその任でないからと言って断わったのだが、名取さん一派は私の承諾なしで私を会頭に推してしまった。結局私の立侯補の意志もないままに、投票が行なわれたのであったが、開票の結果は私が当選していた。私は、実際問題として駿河銀行の頭取を差し置いてまで私が会頭になるのもどうかと思ったので、当選の結果がでてからも固辞し続けていた。
 しかしついにどうしても引き受けざるをえない破目に立ってしまったのである。結局、選挙の結果通り私は会頭に就任したが、「自ら進んで岡野さんを蹴落したのでもなく、自ら希望して会頭になるのでもない」ことをはっきりさせておくために、日銀の松本静岡支店長(現大阪支店長)に沼津までご足労を願って名取さん達を前に立ち会ってもらった上で就任を表明したのである。
さて、会頭になって、私が最初に考えたことは沼津市の商店街を発展させることであった。
 当時沼津の商店街は、装飾も.不十分で都市の商店街としての体裁をなしていなかった。その最たる原因は、銀行が商店に融資をしないことであった。商店街の発展にはまず融資の道をつけることが先決であると考えた私は、直ちに商工会議所が中心となって信用組合を設立し、市内の中小企業を対象に融資を始める方策をとった。するとその効果はてきめん、商店街は店構えを直したり、共通の街灯をつけたりして、見違えるようにきれいになり活気を呈しはじめたのである。
 次に力を入れたのは専門店会の育成である。そのころチケットで月賦販売する専門店会が関西からはやってきた。沼津でも有志が集まって専門店会を結成する計画が進められた。ところがその資金はわずかに三十万円だという。私は顧問の資格でその総会に出席して一席ぶった。「三十万円の資金ではせっかく専門店会をつくっても動きがとれないのではないか。せめて百万円にしなさい。そのかわり、私が貴任をもって静岡銀行から一千万円の信用融資を取りつけてあげます」
 もちろん会員たちは一も二もなく賛成した。出資金を百万円に増額する件はただちに可決されたのである。
 こうして専門店会ができると、そのPRのため大口消費者である沼津を中心とした有力工場の総務関係者を招いてパーティを開いた。私はその席上、商工会議所会頭として次のような挨拶を述べた。
 「専門店会がチケットで月賦販売をやるというと、あなた方はおそらく市価より高く売りつけるのではないかとお考えになるかもしれない。また、それが従来の月賦販売の常識でもあります。しかし私が顧問として専門店会に関係する以上、現金正価と変わらない値段で販売するということをここで約束いたします。どうしてそういうことができるかと不思議に思う方もいるかもしれませんが、当会では静岡銀行から一千万円の融資を受けることになっておリ、商品はみな現金で仕入れるので安く入手できるのです。だからあなた方にも安い商品を提供できるわけであります。どうか、その点は安心して当会とお取引き願いたい」
 正価で月賦ーこの方針は図に当たった。その後沼津専門店会は年々発展し、静岡県下でも優秀な成績をあげるようになり、全国の専門店会のなかから表彰されるまでになった。同会が現在なお発展途上にあることは、まことによろこばしいことである。
 大きな企業は放っておいても自分でやっていけるが、小さな企業はそうはいかない。私は会頭としての仕事の重点を中小企業の育成において努力したつもりである。
もう一つ、私が任期中に力を入れたのは沼津駅の改築である。戦災を受けた沼津駅は終戦後もずっとバラック建てのままであった。当時、駅の改築は地元の寄付が相当ないと許可にならない建て前だった。
 あるとき、塩谷沼津市長が御殿揚で静養中の吉田首相から耳よりな話を聞いてきた。「これからの駅のあり方は構造を立体的にし、会社の事務所やいろいろな商店を置くようにしなければならぬ」という、いわゆる民衆駅の構想である。これに力を得て、私たちは工費一億円で鉄筋四階建ての駅を建築する計画を立てた。しかし国鉄側と話し合ってみると、民間が使用する分の建築費については民間の全額寄付とする、さらにそれを借りるときはこちらが権利金を出したうえ毎月賃貸料を払う、そして契約期間は八十年から百年という条件でなければ応じないという。
 すこぶるむずかしい条件だ。これでは寄付金を集めるわけにはいかない。残念ながら沼津駅改築計画は一時見送りとなった。
 それで私は沼津駅の改築のことは半ば諦めていたのだが、そのことがあってから六、七年たった頃、こんどは国鉄側から話が持ち込まれてきた。
 ー沼津駅改築の予算が四千万円ほどとれたが、地元から千五百万円の寄付が必要である。
その金が見込がつかなければ、改築はできないから予算も他にまわすことになるだろう、ということであった。
 千五百万円の寄付を集めることは容易ではない。しかしこの機を逸すると、沼津駅の改築は当分お預けとなる。あれやこれやと思いあぐねた末、私は国鉄側に沼津駅改築の図面をみせてもらうことにした。図面をみれば、なにかいい考えが湧くかもしれないと考えたのである。
 詳細に図面を検討したところ、改札口の上が百二、三十坪空いているのを発見した。これだ!これを活用する以外に手はない。私は早速この「空所を七、八十年の賃貸契約で貸してくれるなら千五百万円の寄付は引き受けます」と国鉄に申し入れた。
 しかし国鉄側では七、八十年の賃貸契約ではむずかしい、こちらの条件をのむなら応じようとの返事で譲らない。結局国鉄側の言いなりになるよりほかなかった。すでに駅弁を入れている桃中軒が二、三十坪を二百五十万円で引き受けることになっていたので、会議所としてはあとの百坪を借りる条件で千二百五十万円の寄付を引き受けることになった。
 これはいいささか独断専行のきらいがあった。しかし、ある場合は、この程度の蛮勇をふるわなければ何事も成就しがたいものである。
私は国鉄との契約は伏せたまま、しばらく形勢をみることにした。そのうちにいよいよ国鉄側は改築に取りかかり、新しい駅に対する一般の関心が高まってきた。ころはよし、私は会議
所の役員会を招集し、百坪の賃貸と寄付問題をはかった。
「新駅ができるについて階上の百坪を借りることができる。ただし、これには条件がある。場所に甲乙はつけるにしても、平均坪十三万円の権利金がいる。権利金といっても、その内容は寄付金だから権利証をもらうわけではない。さらに毎月賃貸料を払わねばならぬ。また不良品を客に販売するようなことがあれば、解約するといった条件もついている。したがって百坪を細かく分割して個人にやらせると解約されるものが出ないとはかぎらない。そこで私が責任者になって"沼津ステーション・デパート株式会社"をつくり、設備の一部を整え、あとは個人で経営するといった形をとったらどうだろうか。一応会社が金を出して、そのうえでみなさんにまた貸ししたという形をとれば、個人に不手際があっても解約されることはあるまい。こういう条件で坪十三万円で借りる人がいるだろうか。希望者が少なければ、東京方面に有力な借り手があるから、そちらへ頼むことになる。私は地元の発展のために、沼津で全部引き受けてくれればそれに越したことはないと思うのだが……」
 「問口一問、奥行四尺ぐらいのところが十三万円とは高過ぎる。坪十三万円かければ新しい店ができるじゃないか」こんな反対論がガヤガヤと出はじめた。
 「商工会議所としては、一応引き受けたから、みなさんにおはかりしたが、希望者が少なければ東京の有力者に貸すことになる。希望者は二週間以内に申し出てもらいたい」これ以上話し合っても、ここではまとまるまい、考える時間を与えた方がいいと思ったので、私はそう言って役員会を打ち切った。
 二週間経って、ふたを開けてみると、なんと申し込みは二・七倍もあり、こんどは割当に困るほどだった。予想通り私の作戦が奏効したわけである。
話は飛躍するようだが、三十七年四月一日、沼津駅の南北をつなぐ立派なガードが完成して祝賀会を行なった。これより五年ほど前には沼津北口駅が地元の強い要望をバックに完成している。この二つは沼津市の発展に大きく寄与するものだが、この二つとも完成に至るまでには棘の道があった。
 以前、沼津駅は南口だけで北口に駅がなかったため、駅北へ行く人は南口で降りてからガードをくぐらねばならなかった。ところが、このガードはお粗末で雨が降ると水びたしで通れない。年々駅北の商店街も発展してくるし、北口に駅をつくろうという声は十年ほど前から聞か
れていた。だが線路が十三本もある沼津駅に跨線橋をかけると、国鉄の古材を使っても一千万円はかかり、それを含めて工事費は全額地元負担でなければ着工できないと、国鉄では言っていた。これが北口に駅を実現する上の最大の障害となっていたのである。
 しかし、なんとか実現しようという地元の強い盛り上がりをバックにして、沼津駅北開発促進同盟会が発足し、私が会長になって運動にとりかかった。が、地元で集められる金はせいぜい一千万円どまりとあって、容易に実現しそうになかった。
 私は高木沼津市長と何回も国鉄静岡鉄道管理局へ足を運んで陳情したが、うまくいかない。そこで地元選出の遠藤代議士に一肌脱いでもらい、中央で建設省の建設局長に便宜をはからうよう頼んでもらったところ「なにか特別の理由がありますか」と聞かれた。
「雨が降るとガードに水がたまって、子供達が北部の学校へ通えなくなります。学校を休むわけにいかないので、学生達は危険な線路の上を歩いて通っているのが現状です。どうしても北口に駅をつくらなければなりません」
学生を持ち出したのは、われながら上出来だった。それならなんとかしようというわけで、建設省から国鉄に話が持ち込まれた。
 すると、すぐ静岡鉄道管理局長が本庁に呼ばれ、沼津北口駅工事の計画案をつくるよう命ぜられた。そのあとで管理局長に私が会うと「石橋さん、東京でどんなことを言ったのですか。うまくやりましたな」とほめてくれた。
 国鉄が見込んだ工費は二千万円あまりだった。うち地元負担は、七、八百万円で、あとは鉄道利用公債でまかなうことになった。いよいよ話がまとまったので、私達は遠藤さんといっしょに国鉄総裁室へ行った。ちょうど総裁が外遊中だったので副総裁と会った。
 結局、副総裁は鉄道利用公債を使うことに応じたが条件付きだった。
「いま国鉄運賃の値上げ問題が起きていますが、遠藤さんがこれに骨折ってくれるなら、鉄道利用公債の件を考慮しましょう。反対されるようなことはないでしょうね」遠藤さんはちょっと渋い顔をしたが「もちろんだ」と答えた。こうした政治的掛け引きに異論をはさむ向きもあろうが、ともかくこうして沼津北口に駅が五年前に実現したのであった。
これにはほかの人の力もあったが、なんといっても遠藤さんの力に負うところが大きかったのである。
 さて、こうして北口駅はできたが、ガードの方は相変らずで、雨が降れば水浸し、また狭くて大きな車は通れない。こんどはガードの拡張工事をやらねばならぬ。これなくしては沼津の発展はない。こういう声が地元で高まっていた。
 そのころ、遠藤代議士が岸内閣の建設相に就任したので地元の沼津市で祝賀会が開かれた。
市内千本の遠藤邸に永野運輸相と藤山外相がみえたので挨拶に伺うと、私は三人が話をしていた奥の座敷に通された。こんなチャンスはまたとない。ここでガード拡張の糸口をつかまねばならない。さて、どう切り出したものかー。
「遠藤さん、このたびは大臣にご就任でおめでとうございます。ところで一つ、私はうまいことを考えついたのですが、如何でしょう。これは昼寝していても代議士に当選する方法なのですが……」
 選挙といえば大臣でも眼の色を変える。私は第一球を投げて相手の出方をうかがった。
「なんだ、なんの話だ」はたして永野さんが身を乗り出してきた。
「それは沼津の南北の問、盲腸の手術をやるのです。この手術をしないと沼津は発展しません。こいつを遠藤さんにやってもらいたいのです。もし、ガードの拡張が実現すれば駅北住民の遠藤さんへの感謝はたいへんなものだと思います。幸い所管大臣の永野運輸相もおられることだし、ぜひご尽力願いたいものです」
「遠藤君、そういうことがあるのかね」永野運輸相がいうと遠藤さんが「どのくらいかかるかね」と私に聞いた。
「駅長の話ではガードの改築をやると一億五、六千万円ぐらいはかかるそうです」
永野さんがまた一膝乗り出して「そんなわずかなもんかい。そんないいことがあるなら君やろうじゃないか」といとも簡単に遠藤さんにそう言った。
その間、五分も経ったろうか。これでガードの改築がきまってしまった。予算は建設省でとるのだが、仕事は運輸省がやるのだから両者の連絡がうまくつかなければ仕事にならない。それが所管大臣が二人、それも時の首相岸信介と親分、子分の関係にありた二人が同席しているときに話を持ち出したので、たちまちまとまってしまった。
 すぐ陳情書を出せというので、私が会長をしていた駅北開発促進同盟会の名で陳情書を出した。ガードは三十七年四月一日、ついに開通した。
沼津市も都市計画で立派な道路ができ、御殿場線も舗装できたので、東京へ行く車はみなこのガードをくぐるようになった。このガードが今後の沼津市の発展に寄与するところの大きいのは疑いのないところである。
 このほか、産業会館の建設、日本最初のアーケード商店街、そして有名になった沼津市本町商店街の町づくりなど、会議所での仕事は際限なくつづいた。
 そのころ、私は沼津観光協会長を兼任していた。昭和二十七年のこと、夏の人寄せに夏祭りを計画し、手はじめに西条八十、中山晋平両先生に作詞作曲を依頼して「沼津音頭」と「沼津夜曲」をつくってもらい、レコドーにも吹き込んで、振リ付けも頼み、これを町内を通じて普及すると同時に、夏祭りの気分を高めるように努めた。
夏祭りは八月一日から三日問とし、観光協会の主催で狩野川河口の御成橋を中心に仕掛け花火なども用意して、盛大な花火大会を開いた。私はこの夏祭りの宣伝のため、沼津の芸者を狩り集め、満艦飾のトラックに乗せて沼津音頭のお披露目をし、近村から修善寺、伊豆半島と静岡県東部一帯を巡らせた。この三日間に集まった人波はざっと二十万、商店街に落ちた金は一億円にもなった。
 祭りは造るものである。人は集めるものである。思いがけぬ盛大な夏祭りになって商店街もホクホクだった。私も生まれてはじめてのような大音声で、狩野川河口で群衆にあいさつした、
おそらく〃街道一"の〃いい男"になっていただろう、翌年の夏はちょうど沼津御用邸にお出でになっていた皇太子殿下をお祭りにご招待し、ご観覧の光栄に浴した。
 この夏祭りは、いまでは東海道の名物となり、毎夏盛大に行なわれているのである。
 私はまた小田急の安藤社長と懇意だったので、沼津市の繁栄のため、新宿ー御殿場ー沼津の線で小田急乗り入れを促進した。そしてとりあえず御殿場までの乗り入れは実現したが、沼津までの開通はいろいろな事情で安藤さんも踏み切れず、沙汰やみとなった。もしこれが実現していれば、沼津は東京の奥座敷として今日以上に繁栄していただろうと思う。
こうして私は沼津商工会議所会頭を二期勤めたが、三期目のとき岡野元会頭派が私の三選に反対し、岡野さん自身、こんどはどうしても自分が出るといって猛運動を展開した。
 だが、このときは中立派から、のちに参議院議員になった富士製作の田中社長が私のあとを継いだ。
 私は昭和二十五年から三十三年まで七年半の問、会頭の席にあったが、その間、私心を捨て、いつも先頭に立って沼津市発展のために尽してきたつもりである。会頭になったころは終戦後のことで会議所もひどく荒れており、自分の金を出して修理したこともあった。当時は会議所の会費が義務づけられていなかったのでほとんど集まらなかった。そのため接待費、交際費などは全部持ち出しになった。
 こうした金は普通の株式会社なら税務面でも経費として落とせるのだが、私の場合は沼津工場で個人経営の形になっていたのでそれが出来なかった。行きがかり上、岡野前会頭がソッポを向いておられたこともその面ではひびいた。
 しかし、何が幸いになるかわからないものである。税務署では、私の会頭としての出費があまり大きいのを気の毒がって、非常に有利な条件で沼津工場の個人経営から法人への転換を認めてくれたのだった。
 当時、沼津工場は東京国税管内でも個人経営はペスト5に入るくらいで、むしろ個人経営なのが不思議なくらいだった。ある時、国税局の人がきて「あなたのところは個人でも、普通の会社よりは帳簿が正確だ。これなら間違いないし、会議所の出費も大きいことだから、この際株式会社に改めてはどうか」といった。
「工場の設備や士地を時価に見積もられると、厖大な税金がかかってくる。私の帳簿が信用できるというなら、帳簿そのままを認めて株式会社に移してくれますか」というと「できるだけご便宜を計りましょう」といってくれた。

こうして沼津工場は二十八年一月、株式会社として認められた。法人と個人では税金のかかり方が大きく違う。その後、私はこのおかげでどれだけ助かったかわからないのである。

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