「大津島」 浜悠人
昭和十六年十二月八日は日米開戦の日に当たる。ハワイ奇襲で始まった太平洋戦争も、緒戦は赫赫(かくかく)たる戦果を上げたが、開戦から一年有余を経ると、アジア、太平洋地域に及ぶ広大な戦線は米国の反撃により戦局は悪化の一途をたどった。
そのため軍は、兵員の不足と戦況の挽回を期し、学業半ばの大学生の出陣を要請した。
昭和十八年十月二十一日、明治神宮外苑国立競技場で「学徒出陣壮行会」が挙行された。集うは七万五千人の学生で、うち二万五千人が出陣学徒、五万人が見送る男女
学生であった。
皇居遥拝、岡部長景文部大臣の開戦証書奉読、東条英機首相の訓示、全員による「海ゆかば」斉唱。最後に出陣学徒による秋雨をついての分列行進で終わった。
この学徒出陣壮行会に参列した中に旧制沼中(現沼津東高)三十六回生の和田稔がいた。旧制一高、東大と進み、昭和十八年十二月、海軍に入隊。海兵団、航海学校を経て、十九年十一月、回天特攻隊光基地に着任した。
◇
先年、私は山陽新幹線徳山駅(山口県)で下車し、回天記念館を訪れるため、周防灘に面した、表題の「大津島」へ向かった。
回天とは、「天を回(めぐ)らし戦局を逆転させる」との願いを込めて命名した人間魚雷である。そもそも人間魚雷とは、魚雷に大量の爆薬を搭載し、特攻隊員自らが操縦して敵艦に体当たりするという特攻兵器で、生還を期することは絶対なく、たとえ事故に遭っても自分でハッチを開けることができない仕組みになっていた。
これは非人間的な、無残な攻撃兵器で、戦争末期の、どうにもならない状況下で強行されたものだった。
小高い丘の上にある記念館には、実物大の回天と回天碑が戸外に展示され、折しも館内ビデオには、千本松原と回天特攻隊員、和田稔のシーンが映し出されていた。
館内には回天特攻隊員百四十五人の遺影が並んでいたが、彼らの平均年齢は二十一歳とあり、涙なくしては見ることができなかった。
◇
昭和二十年五月二十八日、和田稔少尉は、五基の回天を搭載したイ号363潜水艦に同乗し出撃した。狙いは、沖縄とウルシー基地を結ぶ米艦に体当たりし、その補給路を遮断することにあったが、一カ月間索敵するも、敵艦に遭遇せず、やむなく帰投した。
一度死を決意して出撃した彼にとって帰投は耐えられないことで、その後、長い、重苦しい沈黙が続いた。そして、七月三十一日の再出撃を前にした同月二十五日、訓練中の事故で彼は殉職した。終戦二十日前のことだった。
当時を思い出し、妹の若菜さんは「公報をにぎりしめ走りし松林 敗れし国の蝉鳴きしきる」と詠んでいる。
この年の九月中旬、九州に上陸した枕崎台風により、海底にあった人間魚雷が浮上し発見された。艇内には、端然と座す和田稔の姿があった。(歌人、下一丁田)
(沼朝平成26年8月14日号寄稿記事)
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