2013年11月7日木曜日

「近世沼津の学問と井口省吾」 松村由紀

「近世沼津の学問と井口省吾」 松村由紀

 以前、小学生の女の子に、江戸時代の和本、いわゆる「往来物」と呼ばれる本を見せてあげたことがある。「昔の子ども達が使っていた教科害だよ」と言うと、「えっ、こんなに薄いの?昔の人はいいなあ。」と答えた。
 率直な反応に思わず笑ってしまったが、現代の子ども達は教科によっては一〇〇ページ崖超えるような教科書を使って毎日勉強しているのだから無理もないか、と思う。
 江戸時代、藩士の子弟は藩が設けた藩校で儒学などを学んだ。沼津城下においては、文化年間(一八〇四~一八)水野忠成の時代に「矜式館(きょうしょくかん)」が設立された。文久年間(一八六一~六四)にはヒ「明親館」と改各され、江戸藩邸にも分校が出来た。
 当初、江戸藩邸に教育施設は無く、皆川淇園門下の東条一堂の家塾などで家中教育が行われていた。東条塾の隣には幕末三大道場のひとつ、北辰一刀流・千葉周作の玄武館があり、現在、その跡地には二つの施設の事跡を記した石碑が建っている。
 この頃、庶民の子弟達は、寺子屋や手習塾で、いわゆる「読み」「書き」「そろばん」といった実用的な教育を受けていた。一説には江戸時代の識字率の高さは世界一とも言われ、貸本業なども大いに繁盛していたというから、庶民の文化度は高かったと考えられる。
 沼津には漢学で大きな業績を残した二つの家があった。
 ひとつは医家である島津家で、沼津を代表する漢学者・島津退翁は沼津城下で最初の私塾を開き、身分を間わず儒学を教えていた。退翁の養子・一斎は、沼津藩お抱えの医師及び儒官として登用されている。
 もうひとつは三枚橋町の豪商・鈴木家で、沼津宿の問屋を輪番で勤める大地主だった。四代にわたって学問を修め、数々の著書も残している。
 沼津史談会公開購座『沼津ふるさとづくり塾』第6回は十一月十六日(土)、午後一時から「近世沼津の学問」と題し、元市立沼津高等学校及び県立沼津西高等学校教諭で、沼津市史特任調査員として、沼津の漢学及び俳諧について執筆された牧島光春先生を講師にお迎えして市立図書館四階講座室で開催する。
 丹念な調査・研究に定評のある先生の講義に是非お越しいただきたい。事前の申し込みがなくても受講可。資料代として五百円(会員は二百円)が必要。
 さて、牧島先生の市史での記述には直接関係ないが、筆者としては江戸時代末期から明治初期にかけての激動の時代に青春期を過ごした沼津人、井口省吾陸軍大将の学問はどうだったのかということに思いを馳せてみた。
 井口省書は安政の大地震発生の翌年、安政二年(一八五五)八月、上石田村に生を享け、元治元年(一八六四)、九歳で島津一斎の長子・得山(恂堂)から漢学を学び、その後、沼津兵学校附属小学校に進んだ。
 明治六年(一八七三)、三枚橋町・鈴木与兵衛の依頼を受けた元沼津兵学校頭取・西周の紹介により、従兄弟の鈴木健橘郎と共に、井口省吾は十八歳で中村正直開設による高名な東京の私塾「同人社」に入門。その後、陸軍士官学校、更に陸軍大学校に進んでいる。
 沼津での学問が、いわゆる"坂の上の雲"に結び付いた稀有な例であるが、時代がもたらした様々な巡り合わせに驚かされた次第である。
 井口省吾の足跡については、本会会員の弁護士、井口賢明氏がライフワークとして研究中であり、『沼津ふるさとづくり塾』の中では今年七月の井口賢明氏による、井口省吾のドイツ留学時代を中心とした講座を出発点に、来年以降も継続予定とのこと。更なる研究の進展に期待したい。(沼津史談会会員、長泉町)
《沼朝平成25年11月7日(木)投稿文》

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