「続町名由来(十一)」 浜悠人
西浦地区は駿河湾に面し、内浦地区に続いて伊豆半島の北西にあたる地域である。歴史的には縄文、弥生、古墳の各時代の遺跡がある。江戸時代、村々の多くは海岸線まで傾斜地が迫っているので農耕地に恵まれず、半農半漁の生活が営まれていた。
明治に入ると伊豆国君沢郡の村々は韮山県、足柄県を経て静岡県に所属することになった。明治二十二年の町村制の施行に伴い、木負、河内、久連、平沢、立保、古宇、足保、久料、江梨の九力村は一つにまとまり、君沢郡西浦村として発足した。
明治二十九年、君沢郡から田方郡に編入されて田方郡西浦村となり、昭和三十年、西浦村と沼津市が合併。それぞれ西浦木負~西浦江梨と呼ぶようになった。西浦なる地名は古くからあり、内浦の西に連なる海辺を指し西浦と呼ばれた。
『木負(きしょう)』
内浦地区に接し、長井崎に挟まれ(奈良時代の古文書には「吉妾郷」「棄妾郷」、室町、戦国時代には「木負」なる地名が出てくる。木負とは山中より木を伐出し、背負い下ろしたことより名付けられたとあるが定かではない。
『河内(こうち)』
河内川の中流に位置し、西浦では海に面していない唯一の村落である。地形的に河内とは、川の中流に沿う小平地を指し、また、この地ゆかりの源頼政の孫、源太夫顕綱の後窩である大河内氏に由来して付けられたとも言われるが定かではない。
この地にある臨済宗の九華山「禅長寺」は昔、真言宗の寺で大きな伽藍を持っていたと言われる。
治承四(一一八〇)年、源頼政が宇治で敗死した後、妻の菖蒲(あやめ)が伊豆国に逃れ、剃髪して西妙と号し、この寺に入り故人の冥福を祈ったと伝えられる。境内にある「頼政堂」は元禄十一(一六九八)年、頼政の子孫にあたる高崎藩主、松平右京大夫輝貞によって改築された。
『久連(くづら)』
戦国時代の古文書に出てくる地名で、昔、津波によって土地が崩壊したので「崩(くずれ)」と称し、後に美字をあて久連と記し「くづれ」から「くづら」と託ったと言われる。
海岸沿いの道路傍らには渡瀬寅次郎夫妻のレリーフをはめ込んだ顕彰碑が建っている。この地に昭和四年、渡瀬の遺言に従い、「興農学園」が開校した。渡瀬は沼津兵学校附属小学校から札幌農学校を経て事業家となり、デンマーク式農業教育に共鳴し、農学校をこの久連の地に設立した。
『平沢(ひらさわ)』
久連の西隣にあり、地名は海に面した砂浜が半輪形をなし平砂勾(ひらさわ)と称されていたが、砂勾を沢にあて「平沢」と改めたと言われるが定かではない。今日、人工の砂浜「らららサンビーチ」が賑わいを呈している。
『立保(たちぼ)』
平沢の西隣で駿河湾に面し、立保川下流に位置する。
立保は南北朝から室町時代の古文書に見える地名で、「保」は平安末期より中世を通じての地方行政単位で荘、郷、保となり、地方の土着有力者によって拓かれた土地と思われるが、立保なる地名については定かではない。この地の神明神社には「四方(よも)の回文」と言われる奇妙な作品がある。
『古宇(こう)』
立保の西隣。地名の由来は判然としない。「宇」は家を指し、昔から古い家が多くあった村落のため名付けられたとも言われ、また公領であったから「公」が呼び名から土地名に転じ当て字されたとも言われるが、定かではない。
「太子堂」の木造伝月光菩薩立像は一木造りで、藤原後期の作と推定されている。
『足保(あしぼ)』
古宇の西隣。古文書に「葦保」とあり、葦の生えていた土地で、足は葦が転化したと思われる。
『久料(くりょう)』
足保の西隣。昔、公田で公田料を納めた土地で公料(くりょう)と呼び、後に「久料」に転化したと言われているが定かではない。
『江梨(えなし)』
戦国時代の古文書に「江梨郷」とみえる。この地に入り江がないので「江なし」と称され、「なし」が「梨」に転化したと言われるが定かではない。西端の突き出た砂洲は「大瀬崎」と呼び、海の神の大瀬神社が祭られている。近くには伊豆七不思議の一つ、真水の湧く「神池」がある。
(歌人、下一丁田)
《沼朝平成25年10月8日(火)号投稿文》
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