沼津市長に推さる
昭和十五年一月二十九日、第六代沼津市長森田泰次郎は、四年間の任期を終えて辞職した。市長の任期は四年だったが、初代和田伝太郎、二代大場藤五郎、三代森田泰次郎、四代和田伝太郎、五代小山正道とそれまでの市長は、いずれも短命で、平均就任期間は、わずか二年三ヶ月であった。
市長の選出は、昭和二十二年五月三日施行の地方自治法および二十五年五月一日施行の公職選挙法による前で、市会議員の間接選挙によって行われていた。したがって、必ずしも市民の総意によるものとは限らず、市会内の派閥による選出が通例であった。
しかし第七代沼津市長の選出にあたっては全会一致、全市民的な選考によって行われた。
当期(昭和十四年九月九日ー二十二年四月二十九日)の市会議員は、岩崎岩吉、佐野宗平、金子平作、堀江清吉、岩崎竹次郎、伊藤五郎、小沢藤作、篠原作義、稲玉信吾、望月米吉、石塚恭平、井上彰、大石幸作、山本庄八、水口宝蔵、寺尾利平、勝亦干城、鈴木喜代三、西山倉吉、松本一郎、真野為雄、森田豊寿、小栗偽助、高木恵太郎、小沢荒之助、羽田俊郎、山本立太郎、宮代嘉吉、森田昂、佐藤虎次郎、河口為三郎の諸氏であったが、次期市長を決める銓衡委員会は、森田派と反森田派と中立派からそれぞれ三名ずつ、九名の委員を挙げ、堀江議員を委員長として、意見の交換を行った。
初め当て馬と見られる人たちの名が出されたが、森田泰次郎と名取栄一の二人に絞られ、結局、人格・識見・力量ともに一点の非の打ちどころのない名取栄一を、全会一致で推すことが決められた。ところが、名取翁は「自分は市長の器(うつわ)ではない」と固辞して、暗礁に乗り上げてしまった。
銓衡委員九名に、山本立太郎議長、岩崎竹次郎副議長を加えた十一名の就任勧告委員の説得や、岡野豪夫商工会議所会頭、岩田実元議長、千秋久次郎らの元老も名取家を訪れては膝詰め談判をしたが、頑固な名取翁は、どうしても腰を上げなかった。
市会としてはあくまで受諾させるべく、大手町出身の小栗為助議員を張り番に、勝亦、堀江、水口、石塚に各議員が居直り戦術に及ぶ一方、大手町町内会では、再三に渡って役員会を開き、原田胤徳会長以下代表二十名が同家を訪れて、就任方を懇請した。
この全市的な要望に断りきれず、昭和十五年二月九日、ついに第七代沼津市長の就任を受諾した。名取栄一、六十八歳の時である。この日の市会には、傍聴人が大勢押しかけ、名取市長決定と同時に、万歳を叫ぶ者もあった。「満場の拍手に迎えられて名取市長就任の挨拶を述べ、これに対し真野、稲玉、堀江三議員から新市長絶賛の言葉を浴びせ、沼津市はこれで明朗になったと極言、傍聴席は名取市長の万歳を三唱するなど政党政派を超越した劇的シーンを展開して、午後三時五十分散会した」と当時の読売新聞は、状況を報じている。
名取市長は、就任の第一声を次のように語った。
「自分はあらゆる点から自己を観察して、市長の器でないことをはっきり認識している。学間もなく才もない一介の野人で、こうした大任をお受けすることは恐ろしい気持ちがする。加えて自分の身辺には、公職に就くことは許されざるものがあった。したがって固く辞退した。それにもかかわらず市会満場一致の御推薦によって、ついにお受けした。一介の野人、身に余る光栄です。ひと度お受けする以上、すべての私事を犠牲にして、精神誠意五万市民のために、自分の体をなげうって、最後の御奉公の決意を固めた。もちろん市長となれば、やりたいと思っていることもある。将来沼津市が工業都市として発展すべきであることは、誰も考えている。それに隣村合併という現実の問題も出てくるであろうし、自分は今それを声明しても空手形になっては何とも申し訳けないから、機に応じ善処するという以外抱負はない。ただこれだけははっきり申し上げられる。それは五万市民の総親和により銃後の強化と出征兵並びに戦没勇士の遺家族に対しては、積極的にできうる限りの慰藉と慰問を講じたいと考えています。何分の御助力を願いたい」ーいかにもこの人らしい誠実な言葉で市民を感動させた。
翌十日朝、名取市長は、日枝、楊原、丸子・浅間の三神社に市長就任の報告を行い、引き続き黒紋付袴に威儀を正して、城岡神社に参拝した。同神社では、翌十一日の紀元二千六百年祭式典の会場を、そのまま名取市長の就任祝賀会に変更して、全区民が集まり、四斗樽を開けて祝った。(名取栄一翁伝記より)
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