2023年10月18日水曜日

沼津拘置支所の変遷

 

 沼津拘置支所

 

沿革

水野藩の牢 沼津宿本字松下の千本浜寄りに、水野藩時代の牢屋があり、敷地一二〇坪、建物物棟三六坪であったが、明治元年(一八六八)に静岡藩の管轄となり、同四年七月の廃藩置県により静岡県に移管された。この獄舎は明治十年四月に至り、旧沼津城大手門脇に監獄が新設されたので廃棄された。新監獄は建坪九一坪余であったがその後病監や説教所などを増築して、敷地がしだいに狭隘となり、そのうえ街の中心地に存在することの不適当を考慮し、蓮光寺東方の三枚橋字清水上に、敷地一、三〇八坪を購入し獄舎を新築して、同二十三年三月ここに移転し、静岡監獄沼津支所と称した。同二十八年三月下田の監獄支所が廃止されて、その受刑者は沼津支所に収容された。沼津支所は明治三十六年三月、静岡監獄沼津分監と改称された。この分監は十四歳から十八歳での受刑者を収容する未成年監と十八歳以上の未決拘禁者を収容する未決監であった。

 大正二年(一九一三)三月三日の大火後、沼津区裁判所の南隣に敷地六二八坪を入手し、獄舎延五〇八坪を新築して移転し、静岡監獄沼津出張所と改称した。当時この出張所は駿東・富士・田方・賀茂四郡下の刑期二ヵ月以下の服役者、罰金刑を体刑に代えた労役囚および未決拘禁者を収容し、少年受刑者は収容しないことになった。昭和四年十二月二十七日には沼津刑務支所と改称した。

 昭和二十年(一九四五)七月十七日の戦火により、外塀を残して庁舎と収容所を焼失し、一時沼津警察署の留置場を借用して未決拘禁者を収容していたが、同二十一年四月から岡宮字反田に在った元静岡刑務所沼津作業場跡のバラック建一棟、建坪二三五坪を改造し仮設収容所とした。この建物については次の挿話がある。沼津海軍工廠の敷地は排水の便が悪く難渋していたので、静岡刑務所の服役者に工廠地から束間門の海岸に通ずる排水路を堀さくさせることになり、工廠が前記岡宮に収容所を建設し、昭和十九年春ころから囚人三〇〇~四〇〇人をここに収容して、上流方面から掘削事業を開始したが、完成に終戦となり、以後は市が計画を変更して事業を継続した。これは西北部排水路の前身をなすもので、前述の事情により別名を囚人堀という。

 昭和二十四年四月には大手町の焼跡に新庁舎と収容所が竣工したのでここに復帰し、同年六月一日沼津拘置所支所と改称して現在に至った。終戦直後までは司法省の所管であったが、昭和二十二年五月以後は法務庁次いで法務府、さらに現在は法務省の所管となっている。収容定員は明治の末ころ未成年監当時は一二〇人終戦後岡宮仮設収容所当時は一六〇人、昭和二十四年以降は一二八人となっている。また二十六年一月期一日から定員五人の沼津代用少年鑑別所が付設された。

 現況

  現在の収容人員は経理夫(所内の日常役務に従事する服役煮)一五人、未決拘禁者.平均一〇〇人、少年仮収容者および罰金刑を体刑に代えた労役囚数人である。

 現在の職員数は所長一、看守長一副看守長一、看守二六、雁一、傭人一の計三一人である。

 昭和三十四年一月から上香質御幸町に着工した検察庁の鉄筋コンクリート建物のうち、三階と四階が昭和三十六年四月に完成するので、ここが庁舎と収容所に充てられることになった(「沼津市誌上巻」623624頁 625頁 昭和36331日発行)

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