2023年7月31日月曜日
勝海舟葬儀行列画像 死亡日: 明治22年(1899)1月19日, 東京都
勝 海舟は、日本の武士、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。江戸幕府陸軍最後の陸軍総裁。日本の近代史最大の内戦戊辰戦争において即時停戦と江戸城無血開城を主張し実現させ日本の平和主義に貢献した。
山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。
ウィキペディア
出生地: 東京都 東京 本所
生年月日: 1823年3月12日
死亡日: 1899年1月19日, 東京都
2023年7月30日日曜日
2023年7月28日金曜日
2023年7月27日木曜日
2023年7月26日水曜日
2023年7月24日月曜日
関東大震災3万8000人犠牲 「火災旋風」生々しく 生存者手記発見 【静新令和5年7月24日(月)朝刊】
関東大震災3万8000人犠牲
「火災旋風」生々しく
生存者手記発見
将来の巨大地震に教訓
1923(大正12)年の関東大震災で、地震
後に空き地に避難した約3万8千人が火災やそれに伴う旋風などで死亡した、陸軍被服廠跡(ひふくしょうあと)=東京都墨田区=を生き延びた男性の手記4冊が23日までに見っかった。一部の内容は要約されて発表済みだが、肉筆の原本の存在は知られていなかった。死者10万人超だった震災で、最悪の被害をもたらしたのは「火災旋風」と呼ばれる発生条件が未解明の現象。大都市の木造住宅密集地に囲まれた広場などで、今後も起きる危険性は否定できない。将来の巨大地震への備えとして、100年前の体験から多くの教訓が得られそうだ。
北原糸子・立命館大客員研究員(災害史)は「凄惨(せいさん)な現場の体験が詳述されている点が極めて貴重だ」と高く評価する。
男性は、陸軍の軍服工場「被服廠」の跡地の前に住んでいた山岡清真さん(03~81年)。長男の忠博さん(74)=茨城県守谷市=が手記を保管していた。 72年に書いたとされる手記は震災当日の23年9月1日、避難した被服廠跡で旋風に襲われた瞬間を描いている。
「眞黒な雲か煙か押寄せて来て(略)瞬間身体が宙に浮き上り(略)ドスンと落ちました」(原文通り、以下同)
旋風に加え、火事が起きる様子も記す。
「トタン板それに家財道具に火がついてとび交う様はこれが地獄の何丁目かと思った(略)うづくまって居る人々に当りあちらでもこちらでもキャッーといふ悲鳴」「地面に伏せると楽に息が出来る(略)頭を上げると火気と煙で息苦しくなる」
群衆が倒れた人や死体を踏みつぶして逃げ惑う様子や、焼けたトタン塀に強風で人がたたきつけられて死ぬ場面も続く。
清真さんは2日、墨田区北部にあった鐘淵紡績(今のカネボウ)の工場にたどり着き、救護所で助けられた。
手記の一部の内容は、作家吉村昭が72~73年の月刊誌連載「関東入震災」などで引用している。
72~74年に書かれたらしい4冊のうち1冊は第三者が清書した。B4判原稿用紙60~100枚程度。「朝鮮人騒ぎ」について見聞きしたとの記述もある。
手記要旨
私は一夜のうちに家族を失った。皆さまの参考になればと思い、生まれて初めてペンを取った。自宅は被服廠跡の門前。被服廠跡では公園がつくり始められていた。
9月1日朝は大雨が降った。昼食を食べようとしたら家が大きく揺れ、丈夫な柱に抱きつく。
被服廠跡に避難すれば余震で家が倒れても安全だ。みんな荷物を運んでいる。地震で家がつぶれても家財は運んだし大丈夫。雨が心配だが。
不気味な音とともに雲か煙か押し寄せる。瞬間、体が1・2~1・5㍍浮いて落ちた。真っ暗な中を大八車が舞い上がった。パッと明るくなった。足場やトタン板、家財道具に火が付いて飛び交っている。うずくまっている人に当たり悲鳴を上げて倒れる。息ができるのは地面から21~24㌢で頭を上げると火気と煙で苦しい。火から逃れようと大集団が迫る。踏みつぶされないよう走った。死体の腕や太ももを踏んだ人が滑って倒れて重なり、死人の山ができた。真っ赤な月が見えた。違う、炎と黒煙に包まれた太陽だ。
目が覚めると2日の朝だった。自分の上に5、6人が乗っかって死んでいた。死体だらけで自宅に行くが誰も居ない。よそから来たような人が物品をあさり歩いていた。
親類を訪ねようと隅田川沿いをさかのぼった。在郷軍人や青年団、婦人会がおかゆをつくっている。例えようがないほどうまかった。
鐘淵紡績の手前で助けられた。医師が「だいぶ死人が出ただろう」と聞くので「5千人くらい死んだでしょう」と言うと「ほらを吹くな。人が5千人も死んだら大変ではないか」と言われた。
4日早朝から朝鮮人騒ぎ。井戸に毒を入れて捕まって連行されるという。婦人、子どもを含む12~13人が後ろ手に針金で縛られて数珠つなぎになっている。(赤い字で書き込み)後ろ手のまま十数人を隅田川へ桟橋から落としたらしい。
15日に上野の臨時救護所に移る。マットや毛布があり、やっと病院と思えるようになった。棺おけが間に合わず名札代わりの荷札を死体に付けて山積みにしてあった。
17日に妹と会えた。人目も構わず抱き合って泣いた。みんな私が死んだと思っていたそうだ。
【静新令和5年7月24日(月)朝刊】
2023年7月23日日曜日
2023年7月21日金曜日
2023年7月20日木曜日
2023年7月19日水曜日
幻の計画 小田急 沼津から湯ヶ島へ 小田急が鉄道を計画
沼津から湯ヶ島へ
小田急が鉄道を計画
沼津駅を起点として蛇松線を利用して伊豆西海岸を湯ヶ島へ通ずる計画。
(沼朝昭和32年2月1日号)
小田急の計画
33年度に、工費32億円で工事に着手、沼津駅から蛇松線を利用、港湾から香貫山麓を回って、静浦、口野、伊豆長岡、修善寺、湯ヶ島に通ずる鉄道を建設する意向。
(沼朝昭和32年2月10日号)
高架線で湯ケ島へ 小田急沼津に事務局
沼津から湯ケ島温泉へ通ずる鉄道建設協議会は、九日午後四時から伊豆長岡町大和館で小田急電鉄から安藤杜長、沢専務、地元側から沼津市長、議長、会議所副会頭をはじめ伊豆長岡、修善寺、大仁三町と上中下狩野三村代表が集つて開き懇談した結果、地元側も小田急の意図に全面的に賛意を表し、期成同盟を早急に結成、県も話合って建設計画を促進することになり、準備会は高木沼津市長が中心となつて事務局は沼津市に置くことに決めた。
小田急の計画は本紙既報のとおり、資金三十二億二千三百万円で沼津駅から蛇松線を通つて港湾、香貫山麓口野から撰豆長岡、大仁、修善寺、湯ケ島を最短距離で結ぶ鉄道を建設するもので、市内は高架線、道路との交叉は立体交叉で踏切は作らず、トンネルを四つ掘ることになつている。
この申請は昨年四月運輸省に出されてあり、許可がおりれば一年間で土地買収容二年間で鉄道敷設が行われ、三年後には沼津、湯ケ島間最短コース二九.五キロを三十分で突つ走る快速電軍が、お目見得することになる。これにより関西方面の行楽客が獲得できるものと採算をとつている。
(沼朝昭和32年2月12日号)
"沼津寶塚劇場"完工(東宝系) いよいよ3月15日開館 (黎明新聞昭和31年3月15日号)
"沼津寶塚劇場"完工(東宝系)
いよいよ3月15日開館
上本通り東海劇場前に昨年1月から清水市鈴与建設がうけおつて着工始めた総面積二百二十五坪鉄筋コンクリート三階建の工事は、最後の追い込みに日夜懸命の作業を続けているが、いよいよ十五日春の陽ざしに柔かく映えるクリーム色の劇場、沼津宝塚劇場と命名(社長猪俣勝人氏、支配人松本一己氏)し開舘する。
東宝系、冷暖房装置、客席六百、収容人員千名、シネスコ・スクリーン常備、ほう画ワイドスクリーン使用、富士セントラル最新式影写機、発声器ビクター二階喫茶室にテレビ、公衆電話を備え客のサービスに当り、化粧室は全部水洗便所で県東蔀一をほこる劇場となるわけ。開館披露第一週目は十五日から二十日まで鶴田、三船出演の「暗黒街」、香川、木村出演の「奥様は大学生」を上映する。
(黎明新聞昭和31年3月15日号)
スター來場に湧く
きのう宝塚開館さる
県東部一を誇る沼津宝塚劇場のコケラ落しに東宝ベテランスター岡田まり子、久保明、森恵子等が披露挨拶に当日来沼するので一層人気を集め話題の中心となる程の空気で明けたす五月十五日午前十一時十分関係者を開場一ぱい集め開館式を行った。
同館社長猪俣氏挨拶、感謝状贈呈、来賓高木市長、東宝社長、県映画協会長の祝辞、終つて一般客の入場となる。
十一時一般入場者は早くも館前から日通倉庫まで蛇・・・」終了後三スターの挨拶に若人の歓声が上り、おすなおすなの出足良い出発だつた。
千本海岸に面した千松閣にひとときの休憩をとった久保明に沼津の印象をきくと〃初めて沼津の土をふみ今まで海を眺めていたが実によい環境でうらやましい、こん美しい松原や海岸を背景によい映画を撮りたい”と意欲ある所を語つており沼津の映画フアンとしても銀星座休館後さびしい面持ちだつたが今回の宝塚開館と共に興行界に活気ある・・・・
(黎明新聞昭和31年3月16日号)
市内アーケード街にある松菱デパート 五周年記念に松菱で運転 (黎明新聞昭和31年5月17日号)
エレベーター出現
五周年記念に松菱で運転
市内アーケード街にある松菱デパートでは開店五周年を記念して六月一日からエレベーターを運転することとなり、目下の所最後の追込み工事に拍車をかけている。
この工事は総工費四百万円で四月十五日から仕事をはじめたもので機械は日立製作所製を使用、定員八名、一階から屋上まで各階ごとに利用出来る。
この五周年記念運転を期に屋上にスポーツ、グラウンドを設け従来晴天の日のみで雨天には屋上に出れなかつたものを雨でも一部には出て雨の町をのぞむことの出来るように休けい所を作る。
エレベーター新設運転を前に鈴木営業課長はごデパートの根本になるお客様への便宜を、と心掛けていたものでこれからは階段使用のみでなく大いにエレベーターを利用して全店御引立てを願うと語つている。
戦前岳南デパート当時にエレベーターがあつたものだがその後現在に至る二十年近い間一段々階段を使用するほかなかつたが、これでデパートらしいデパートとなるわけ。
(黎明新聞昭和31年5月17日号)