関東大震災3万8000人犠牲
「火災旋風」生々しく
生存者手記発見
将来の巨大地震に教訓
1923(大正12)年の関東大震災で、地震
後に空き地に避難した約3万8千人が火災やそれに伴う旋風などで死亡した、陸軍被服廠跡(ひふくしょうあと)=東京都墨田区=を生き延びた男性の手記4冊が23日までに見っかった。一部の内容は要約されて発表済みだが、肉筆の原本の存在は知られていなかった。死者10万人超だった震災で、最悪の被害をもたらしたのは「火災旋風」と呼ばれる発生条件が未解明の現象。大都市の木造住宅密集地に囲まれた広場などで、今後も起きる危険性は否定できない。将来の巨大地震への備えとして、100年前の体験から多くの教訓が得られそうだ。
北原糸子・立命館大客員研究員(災害史)は「凄惨(せいさん)な現場の体験が詳述されている点が極めて貴重だ」と高く評価する。
男性は、陸軍の軍服工場「被服廠」の跡地の前に住んでいた山岡清真さん(03~81年)。長男の忠博さん(74)=茨城県守谷市=が手記を保管していた。 72年に書いたとされる手記は震災当日の23年9月1日、避難した被服廠跡で旋風に襲われた瞬間を描いている。
「眞黒な雲か煙か押寄せて来て(略)瞬間身体が宙に浮き上り(略)ドスンと落ちました」(原文通り、以下同)
旋風に加え、火事が起きる様子も記す。
「トタン板それに家財道具に火がついてとび交う様はこれが地獄の何丁目かと思った(略)うづくまって居る人々に当りあちらでもこちらでもキャッーといふ悲鳴」「地面に伏せると楽に息が出来る(略)頭を上げると火気と煙で息苦しくなる」
群衆が倒れた人や死体を踏みつぶして逃げ惑う様子や、焼けたトタン塀に強風で人がたたきつけられて死ぬ場面も続く。
清真さんは2日、墨田区北部にあった鐘淵紡績(今のカネボウ)の工場にたどり着き、救護所で助けられた。
手記の一部の内容は、作家吉村昭が72~73年の月刊誌連載「関東入震災」などで引用している。
72~74年に書かれたらしい4冊のうち1冊は第三者が清書した。B4判原稿用紙60~100枚程度。「朝鮮人騒ぎ」について見聞きしたとの記述もある。
手記要旨
私は一夜のうちに家族を失った。皆さまの参考になればと思い、生まれて初めてペンを取った。自宅は被服廠跡の門前。被服廠跡では公園がつくり始められていた。
9月1日朝は大雨が降った。昼食を食べようとしたら家が大きく揺れ、丈夫な柱に抱きつく。
被服廠跡に避難すれば余震で家が倒れても安全だ。みんな荷物を運んでいる。地震で家がつぶれても家財は運んだし大丈夫。雨が心配だが。
不気味な音とともに雲か煙か押し寄せる。瞬間、体が1・2~1・5㍍浮いて落ちた。真っ暗な中を大八車が舞い上がった。パッと明るくなった。足場やトタン板、家財道具に火が付いて飛び交っている。うずくまっている人に当たり悲鳴を上げて倒れる。息ができるのは地面から21~24㌢で頭を上げると火気と煙で苦しい。火から逃れようと大集団が迫る。踏みつぶされないよう走った。死体の腕や太ももを踏んだ人が滑って倒れて重なり、死人の山ができた。真っ赤な月が見えた。違う、炎と黒煙に包まれた太陽だ。
目が覚めると2日の朝だった。自分の上に5、6人が乗っかって死んでいた。死体だらけで自宅に行くが誰も居ない。よそから来たような人が物品をあさり歩いていた。
親類を訪ねようと隅田川沿いをさかのぼった。在郷軍人や青年団、婦人会がおかゆをつくっている。例えようがないほどうまかった。
鐘淵紡績の手前で助けられた。医師が「だいぶ死人が出ただろう」と聞くので「5千人くらい死んだでしょう」と言うと「ほらを吹くな。人が5千人も死んだら大変ではないか」と言われた。
4日早朝から朝鮮人騒ぎ。井戸に毒を入れて捕まって連行されるという。婦人、子どもを含む12~13人が後ろ手に針金で縛られて数珠つなぎになっている。(赤い字で書き込み)後ろ手のまま十数人を隅田川へ桟橋から落としたらしい。
15日に上野の臨時救護所に移る。マットや毛布があり、やっと病院と思えるようになった。棺おけが間に合わず名札代わりの荷札を死体に付けて山積みにしてあった。
17日に妹と会えた。人目も構わず抱き合って泣いた。みんな私が死んだと思っていたそうだ。
【静新令和5年7月24日(月)朝刊】
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