沼津 山王社(ぬまづ さんわうのやしろ)
国花(こくか)萬葉記に。沼津大明神浅間惣社山王権現と有。
前に誌せし車返(くろまがえし)の里は此辺なりとぞ。今は三枚橋町(さんまいばし)といへり。
当社に富士の牧狩に用ひられたる大釜とてあり。むかしは二口有しを、盗人取て行んとせしが、重かりければ辺り近き川中になげ捨て去ぬ。
今の釜ケ渕と云是なり。此社の前なる大鳥居に建久二年と誌せし板を立添、此板の下の方損失せしにや。亦立石ありて石面に富士山の形を刻めり。是は彼大釜を往来の旅人に見すへき案内の為となせり。
『 山王神社は、三枚橋町と日吉村の境にあって御朱印高五拾石であった。安元(一一七五)の昔、叡山の衆徒が日吉神社の神輿(みこし)をふって強訴をした後、山王宮の崇りがあったので、二条関白師通公の領地、駿河・遠江の二所に神社を勧講することを誓った。それにもとづき当社は御建立といい、大岡の庄拾四ケ村の惣鎮守である。また、同社の釜殿、九尺四面、此釜建久年中源頼朝公御狩の時の釜と云伝、と『駿河記』に見える。
図は山王社の大鳥居である。左側に建久四年(一一九三)と見えるが、詞書では二年である。鳥居の奥に朱塗り建物が見えるのが社殿であろう。右端の建物が釜殿で、中に釜が見える。その左の石碑には、釜の由来が刻してあったらしい。碑の向こうで婦人に抱かれた幼児に、手前の子供がイナイイナイバーをしているようである。』(東街便覧図略)
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