2023年5月5日金曜日

浮島原(うきしまがはら)  浮島観音堂(うきしまくわんおんどう)

 




 浮島原(うきしまがはら)

 浮島観音堂(うきしまくわんおんどう) 分見図、順覧き等其外道中記には観音堂とあり。所の人は地蔵堂なるよしを云へり。いかが。

 駿州名勝志に云。此辺の土地洪水漲る時は、一面に浮にて水上に草野を見る。古へよりかゝりしにや浮島の名有。と誌せし。仙覚万葉集註に曰。富士、葦高両山の間むかしは東海道の駅路有けり。中略。扨此道をむかしの旅人とをりける間、重服触穢(しよくえ)の者とも朝夕とをりけるを、足柄の明神いとはせ給ひて今浮島か原と云は、南海の中に浪にゆられて有けるを打よせさせ給いて。扨其後今の道は出来にけりとなん申伝へて侍へる也。然は打寄る駿河の国といへるは此本縁にとや侍やらん。と云。 平家物語に。富士河合戦に曰。去程に兵衛の佐よりとも、鎌倉を立て足からの山打越、木セ川にこそつき給へ。甲斐信濃源氏共はせ来て一つになる。駿河の国浮嶋ケ原にて勢揃へ有つけり。其勢廿万騎とそ喜びたる。と云。凡此所は旧たる地にして様々の古伝多ける。寿永三年正月、木曽義仲と頼朝卿の軍は、世に知る所の佐々木、梶原宇治川の先陣せし其時東国勢思ひ々に上る程に、此原にて梶原源太景季高き所に上り見るに佐々木四郎高綱か生食と云ふ名馬を引せし故、梶原にはゆるし給わて、佐々木に給はりし事をいきとおりて口論せしも、此原にての事也。平家物語巻第九に詳なれは委しく記すに不及。

 又富士の牧狩のとき、浮嶋ケ原にて下郎とも三ツ足のかなわを常の如く直て用ひけるに、砂地なる故かたむきてすはウさりけり。頼朝御覧して、輪を下になしてすえてと仰ありしが、御覧のことくに打かへして直ければ、かたむく事なし。是も君の御覧のことくと申心にて御徳と申来るよし。鷺水閑談(むすいかんたん)と云書にみえたり。

 海道記に云。浮島ケ原をすぐれは、名はうき島と聞ゆれと実は海中とはみへす、野径とは見つくし草村有。木の林有、はるかに過れは人煙片々と絶て又たっ。新樹程を辺たて隣たかひにうとし。下略。

 東関記行に。此原むかしは海上にうかひて、蓬莱の三ツの嶋のことくに有けるによって、浮嶋となん名付たりときくにも、おのつから神仙の見るにもや有ん。といとゞおくゆかしく見ゆ。と云。

『 浮島原には二つの意味がある。『駿州名勝志』に、「今の原駅即浮島ケ原なり。すべて原より吉原のあたりまで浮島ガ原なるべし。此辺古へより広原の地にて、浮島原、柏原、蒲原の名有。原、吉原、蒲原を三原と称す。」とある。この図では後者の意味で、詞書を書いている。

 図は、浮島観音堂の前の街道である。しかし、その観音堂については確かなことはわからない。図に「分間図、順覧記、其外道中記ニハ観音堂とあり、所の人は地蔵堂となるよしを云へり、いかゞ」と記してある。分間図の「くわんをんじ」は宿の西端、安泰山徳源寺の西にある「小ちや屋」の西隣に見える。しかし、他書等には全く見られない。地元の人のいう地蔵堂ならば、『駿河記』に、得満山清梵寺に地内地蔵堂が見える。それは、里の漁師の網にかかった仏を安置するために長者の妻が建てたものと記している、それかも知れない。また同書には、海上山長興寺に観音堂のある事を記しているが、それは分間図には見当たらない。以上の三つの何れかであろうが、確かな事はわからない。なお街道は先方が沼津方と考えられる。さらに、この図は雨中の図である。先図に見えた雨雲が、ここで雨になった、と考えられる。』

(東街便覧図略)


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