戦国時代の駿東地方
武田氏の視点からアプローチ
沼津史談会(菅沼基臣会長)は、第10回沼津ふるさとづくり塾を、このほど市立図書館視聰覚ホールで開催した。今回は武田氏研究会副会長の平山優氏が講師を務め、「興国寺城と武田一族」と題して解説。従来は今川氏や北条氏の視点で見られていた戦国時代の駿東地方について、武田氏の視点から論じた。約百二十人が聴講した。
武田氏研究会副会長平山優氏が解説
沼津史談会 沼津ふるさとづくり塾
郡内と駿東 はじめに平山氏は、山梨県東部の都留(つる)郡一帯を指す「郡内地方」という言葉を紹介し、「都留郡の周辺は駿河とのつながりが深い。沼津などではイルカを食べる習慣があるが、都留郡でも同じくイルカを食べる。こうしたつながりは人の交流があったからで、武田は、これらの人のつながりを後の駿河支配で利用していたのだろう」と話し、郡内地方と駿東に縁のある武将達を解説した。
葛山氏 戦国時代前半の駿河国は今川氏が大名として君臨していたが、駿東地方は現在の裾野市周辺を本拠地としていた葛山(かつらやま)氏が支 配していた。
葛山氏の支配地域は富士川から黄瀬川の間の地域で、富士郡と駿東郡に相当する。現在の沼津市街地に当たる地域も葛山氏の勢力範囲にあった。
ただ、興国寺城(沼津市根古屋)が今川氏から北条早雲(伊勢盛時)に与えられていることから、現在の沼津市西部から富士市東部にかけての地域は今川氏の直接支配地であったと推測されている。
このため、現在の地理感覚からすると、葛山氏の領地は御殿場から沼津市街にかけての地域と富士宮から富士市西部にかけての地域の二つに分断されているように見えるが、この二つの地域は愛鷹山北側を東西に走る街道(十里木街道)によって結ばれていた。
葛山氏は今川氏に属する地方領主だったが、一五六八年に甲斐の武田信玄が駿河への侵攻を開始すると、葛山氏は武田側に寝返った。
この時の当主の葛山氏元(かつらやま・うじもと)には、三人の息子がいたが、信玄の六男信貞を養子に迎えている。後に氏元は謀反の罪で監禁され、諏訪湖で自殺した。
油川氏 この葛山氏と密接な関係を持っていたのが、甲斐の油川(あぶらかわ)氏だった。
油川氏は、甲斐武田氏の当主信昌(信玄の曽祖父)の次男信恵(のぶよし)の子孫で、武田氏の分家筋に当たる。甲府の南の油川を本拠地にしていた。
信昌は「武田氏中興の祖」と呼ばれるほどの活躍をした武将で、信玄は信昌を強く尊敬していた。
当時の大名は信頼の証として自分の名前の一文字を家臣に与えるという習慣があり、信玄(本名「晴信」)は、一族や有力家臣、その長男には本名の一文字である「信一を与え、次男以下には曾祖父の「昌」の字を与えていた。真田幸村(信繁)の父として知られる真田昌幸や、興国寺城代となった曽根昌世は「昌」の字を与えられたグループに属する。
武田信昌は優れた武将だったが、後継者問題では大失敗をした。長男信纏(のぶつな)ではなく、次男信恵を後継者にしようとしたことから、信縄派と信恵派の内乱を招いた。戦いは長引き、信縄の子の信虎(信玄の父)の代になってからの戦いで信恵が敗死するまで続いた。
葛山氏と油川氏 油川信恵には信貞(信玄の六男とは別人)、藤七郎、信友、彦三郎という四人の息子がいて、信貞は葛山氏、藤七郎と信友は御宿(みしゅく)氏を名乗ったとされる。御宿氏は葛山氏の分家に当たる。
信恵死後、油川一族は信玄の家臣となった。信友や彦三郎は武田の軍勢に参加し、川中島の合戦などで戦死している。また、信恵の孫の友綱は御宿監物(みしゅく・けんもつ)と名乗り、信玄の重臣として仕えている。
小山田氏 甲斐の郡内地方は小山田氏が支配していた。小山田氏は、武田氏滅亡時における裏切り行為で知られる。一五八二年、織田軍に敗れた武田勝頼(信玄の子)が小山田氏を頼って逃れた時、小山田氏の当主信茂(のぶしげ)は、自分が避難を勧めたのにもかかわらず勝頼受け入れを拒絶し、勝頼は自害に追い込まれた。
この信茂の妻は信貞の娘で、信茂と御宿監物は義理の兄弟に当たる。また、信貞にはもう一人の娘がいて、こちらは信玄の弟の子である武田信堯(たけだ・のぶたか)の妻になっていた。
このため、武田滅亡時に信茂と信堯は行動を共にし、信茂がその裏切り行為を織田信長に非難されて処刑された時、信堯も同様に処刑されている。油川氏と葛山・御宿
氏、そして小山田氏のつながりは強かった。
駿東の戦いと葛山氏 駿東地方を巡っては、今川氏、北条氏、武田氏という有力大名連がたびたび奪い合いを行った。これらの戦いの様子を伝える史料の中には、下の名は不明だが「葛山」や「御宿」と名乗る武将達が参戦していることが伝えられていて、ある時は北条軍の一員として、また、ある時は今川軍、武田軍として登場している。
このことについて平山氏は、葛山や御宿は一族内部で分裂していて、それぞれが別の大名に従っていたのだろうと推測している。
武田の駿河支配 駿東地方の奪い合いは、一五七一年に武田と北条が和平を結んだことで終結し、黄瀬川から西は武田領と確定した。
駿河国を手に入れた信玄は、江尻城(静岡市清水区)を中心拠点とし、駿河東部では大宮城(富士宮市)、興国寺城、深沢城(御殿場市)の三城を地域支配の拠点とした。三城には責任者として「城代」が配置され、城代は城の駐屯部隊の指揮だけでなく、徴税や裁判事務、治安維持など行政官としての役割も担っていた。
こうした城代の人選において、平山氏は、赴任先の地域とのつながりが重視されたと指摘する。
城代の経歴 興国寺城代だった曽根昌世は武田氏の分家出身で、その本拠地である曽根丘陵は吉原(富士市)や富士宮と甲府を結ぶ街道沿いにあった。また、昌世自身も、一族が一時的に失脚した際には駿河国で亡命生活を送っていて、駿河の事情に通じていたと見られる。
同じく武田氏の分家出身で、駿東支配者の葛山氏と縁が深かった油川氏も城代候補となった。
平山氏は、浄圓(じょうえん)という僧侶が深沢城の城代を務めていたことを伝える史料に着目するとともに、油川彦三郎の孫の信貞(信玄六男や信恵の子とは別人)が出家して浄圓という法名を名乗っていたことから、両者は同一人物であるとした。
おわりに 甲斐と駿河を縦断して活動した油川氏について解説した平山氏は、「武田氏は地方の実情を重視し、その地方の関係者を支配のために送り込んだ。甲斐と駿河を分けて考えるのではなく、国境を越えて人の動きがあったことを理解していく必要があるのではないか。機会があれば、次は『信玄は、なぜ駿河に侵攻したか』について話したい」と述べて講演を終えた。
(沼朝平成27年3月15日号)
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