2014年7月5日土曜日

誕生秘話から最新新幹線の軌跡を振り返る

 誕生秘話から最新新幹線の軌跡を振り返る
 50周年パーフェクトヒストリー


 しかしこの予算案は、議会の過半数を占めていた政友会から反対されてしまいました。政友会は改軌による既存路線の高速化、輸送力強化より、まず全国に鉄道網を敷設することが先と考えていたのです。
 後藤は改軌を実現すべく引き続き活動しますが、1919(大正8)年に原敬率いる政友会とその内閣が出した結論は「改軌不要」。標準軌への改軌の動きは、道が閉ざされてしまいました。
 昭和になり、日本の鉄道高速化計画は新たな動きを見せます。東海道・山陽本線の輸送力が日本の大陸進出などに伴い限界へ迫っていたため、それとは別に、東京~下関間へ高速運転と大量輸送が可能な標準軌の新線を建設する案が登場したのです。
 「弾丸列車計画」と呼ばれたこの案は最高速度200km/hで、東京~大阪間を約4時間、東京~下関間を約9時間で結ぶことを想定。また将来的に海底トンネルを経て東京と大陸を結ぶ輸送ルートを確立するという、壮大な構想を持っていました。しかしこの計画も1941(昭和16)年に着工されたものの、戦局悪化に伴い工事が中止されてしまいます。

 古くから芽吹いていた高速鉄道計画
 1872(明治5)年に誕生した日本の鉄道。その高速化について、早くも明治時代から動きがありました。軌間1,067mmの「狭軌」で建設されていた線路を、高速走行に向き輸送力も大きい軌間1.435mmの「標準軌」に広げよう、というものです(「軌間」:2本のレールの間隔のこと)
 この「改軌案」は1887(明治20)年に軍部から提起され、政界を巻き込んだ大論争に発展。紆余曲折を経たのち、内閣鉄道院初代総裁の後藤新平が、1911(明治44)年度の政府予算案へその費用を盛り込むことに成功します。

 「鉄道斜陽論」のなかで
 昭和30年代初頭、戦後復興に伴い増大する東海道本線の需要に対応するため、高速運転と大量輸送が可能な標準軌の線路を新たに建設する案が再浮上します。
 しかし当時、200km/h以上で営業運転を行う高速鉄道は世界に例がなく、実現が危惧されました。加えて航空機や高速道路の台頭が予感されていた当時、鉄道はもはや時代遅れであるという「鉄道斜陽論」も存在し、大量の予算が必要なその計画について疑問も少なくありませんでした。
 こうした状況のなか、重大な転機になったのが1957(昭和32)5月に国鉄の技術研究所が開いた講演会「超特急列車、東京~大阪間3時間への可能性」です。250km/h運転の可能性がデータの裏付けと共に紹介され、鉄道にはまだ可能性があるのではと、社会から大きな注目を集めるようになったのです。
 そしていよいよ1959(昭和34)420日、熱海駅付近で標準軌を用いた高速鉄道東海道新幹線の起工式が行われます。
 このとき大役を果たしたことから、「新幹線生みの親」と呼ばれる人物がいます。第四代国鉄総裁の十河信二です。「超特急列車」講演のあと、機が熟したと新幹線建設に向けて国鉄内部の意見をまとめ、政治へ働きかけ、その建設を実現させました。
 十河は新幹線建設が決定した際、ある人物の墓前へ報告に向かっています。明治・大正期に標準軌への改軌を唱えた後藤新平の墓前です。1884(明治17)年生まれの十河は、鉄道院の官僚時代に後藤の強い影響を受けていました。師の後藤が届かなかった標準軌による鉄道高速化の夢を、十河は叶えたのです。

 「モデル線」を駆ける試作車両
 世界でも前例のない高速鉄道を実現させるためには、十分なテストが必要でした。そこで国鉄は1962(昭和37)年、実際と同条件で走行試験が可能な「モデル線」を神奈川県綾瀬市~小田原市に建設。ここでの実証試験の結果を基に新幹線の開発を続けます。このモデル線は現在、東海道新幹線の本線として使用されています。
 モデル線で走行試験を行うにあたり、2両編成の「A編成」、4両編成の「B編成」という2種類の新幹線用の試作電車が製造されました。この試作車両によるテストの結果を受け誕生するのが、新幹線初の営業用車両である0系です。ちなみに試作車両を使ったテストにより、列車が高速でトンネルに入ると気圧変動で乗客へ不快感を与えることが分かったため、0系新幹線車両には気密構造が採用されています。
 開業が迫ると愛称の公募が行われました。「夢の超特急」に対し世間の注目は非常に高く、予想の約30万通を大きく上回る約56万通もの応募ハガキが届きます。
 結果は多い順に「ひかり」「はやぶさ」「いなずま」「はやて」「富士」「流星」「あかつき」「日本」「こだま」「平和」。ここからまず「ひかり」が選ばれ、光速に対する音速という視点などから「こだま」が合わせて選ばれました。
 そして東京オリンピック開催を9日後に控えた1964(昭和39)101日、東海道新幹線がついに開業しました。着工からわずか5年半で開業できた理由のひとつに、弾丸列車計画が挙げられます。そのとき確保されていた用地を新幹線に流用できたのです。

 意外と気づかない? 東京駅の「新幹線記念碑」。
 歴史的な事業や出来事の度に建立される記念碑。

200km/h以上で営業運転を行う世界初(1964年当時)の高速鉄道だった東海道新幹線にもやはり存在します。東京駅の東海道新幹線1819番ホーム真下にある壁面のプレートが「新幹線記念碑」です。ここには次のように記されています。「東海道新幹線この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された」。この事業が成ったのは沿線の方々はもちろん、国民の皆様から多大なご支援を頂戴した賜物という記録が永遠に刻まれているのです。

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