千本松原守った若山牧水
片浜地区社協が福祉講演会
牧水会 林理事長が講演
片浜地区社会福祉協議会(佐々木健会長)は福祉講演会を、このほど片浜地区センターで開催。沼津牧水会理事長の林茂樹・乗運寺住職が「若山牧水と沼津」をテーマに話した。林住職の祖父は、千本松原伐採の反対運動を通じて牧水と知り合いになった。同寺には牧水と妻喜志子が眠る。
お上の計画中止させる
自然保護運動の先駆け
林住職は、まず「牧水をめぐる三人の女性」について語り、最初に母親マキを挙げた。
マキは野山に出かけるのが好きで、牧水を連れて行っては樹木の名称を教えた。牧水の短歌には樹木や鳥の名前が多く出てくるが、これらは全て母親から教わったものだと書いているという。
牧水の本名は繁。筆名「牧水」の「牧」は母親のマキから取っていて、「水」は海の水のことで母親から教わった自然を指している。このように牧水は、母親なしには語
れない。
二番目に挙げたのは、早稲田大学時代、宮崎県に帰省した時に知り合った園田小枝子。彼女との恋愛が大学時代に制作した第一歌集に収められているが、彼女は子持ちの人妻で、牧水は自分の下宿に連れて行くほど熱愛していたが、小枝子は後に別の男性と結婚する。
牧水は大変なショックを受けて荒れ、多い時には三日で一斗(一升の十倍の一八・〇三九リットル)、最低でも一日一升を飲んでいたと言われ、それから酒なしではいられないようになったという。
林住職は、牧水どん底時代の歌として「自玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」を紹介しながら、後に信州への旅で出会う、牧水を巡る三番目の女性、後に妻となる太田喜志子について話した。
「この女性と出会ったことが牧水にとって大変な幸せだった。牧水は、この女性に出会った瞬間、自分はこの女性によって救われると直感した」とし、東京に戻った牧水は毎日のようにラブレターを書き続けたこと、それが今、若山牧水記念館に展示してあることを説明した。
喜志子は学校の先生で、牧水の誘いを受けることは職を失うことを意味していたが、牧水の情熱に負けて東京に出る。牧水は短歌で生計を立てることを決めていて、大変な生活が待っていたが、「ひたすら奥さんの喜志子さんが支えた」と林住職。
また、「牧水は喜志子さんにも園田小枝子とのことを全て話していた」と思えること、自身が何度も目にしたという喜志子さんは「凛とした背筋のピンとした人」だったことを語った。
この後、牧水が東京から沼津に移り住み、千本松原に隣接する五百坪の土地を買って初めての自宅を建設したこと、自宅を建ててから日課としたのが松原の散策で、酒を二合飲んでから松林の中を歩いていたことなどを話した。
大正十五年に千本松原の御料林が県に払い下げられ県有林になると、県が一部を切って財政の足しにしようとした計画が立てられる。牧水が、いつものように散歩していると、大きな松や堂々とした松に限って印が付けられており不審に思っていたところ、伐採計画であると知り激怒する。
この伐採計画反対は市民運動になり、当時の全国紙に牧水が投稿し、三日間、連載の形で掲載される。この寄稿で牧水は千本松原を日本一の松原だと称えている。新聞を通じ全国に知れ渡ったことで県は計画を中止せざるを得なくなった。
林住職は「この時代、お上の決めたことが住民の反対でつぶれたということは、ほとんどなかったと思う。それより大事なのは、牧水は自然保護運動の先駆けだったこと。沼津の人達は千本松原を守った牧水のことを知ってほしい」と話した。
《沼朝平成25年11月28日(木)号》
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