続町名由来(十) 浜悠人
内浦地区は駿河湾の奥深い内浦湾に面し、海岸線が出入りし天然の良港に恵まれている。北は金桜山を境に静浦口野に接し、東は山を背に伊豆長岡と、南は修善寺や西浦に接し、西は淡島、内浦湾を隔て遥か富士山を眺望できる絶景の地である。ここは江戸時代から漁業を中心に、北から重寺村、小海村、三津村、長浜村、重須村の五力村から成っていた。
明治二十二(一八八九)年、町村制の施行に際して五力村は一つになり、君沢郡内浦村として発足した。村名は湾深い内海の磯を指す内浦で、戦国時代の古文書に出てくるので採ったと思われる。
昭和三十(一九五五)年、内浦村は沼津市と合併。それぞれの地域は大字内浦を冠し内浦重寺、内浦小海、内浦三津、内浦長浜、内浦重須と称するようになった。
『重寺(しげでら)』は昔、医源院と大慈院(現在は観音堂)の二つの寺が上と下に重なっていたので重寺なる地名が付いたとか、また「茂ってらあ」と後背の山を指して呼んだと説く人もあり、定かではない。
重寺の西に周囲約一・五㌔の円錐形の小島、淡島がある。「あわ」はアイヌ語で「入り口」の意味があり、海から陸への入り口を指す。「淡」は「あわ」の当て字と思われる。重寺の奥に白山神社があり、民俗芸能の三番隻(さんばそう)が有名だと聞いた。
白山神社から金桜山へのルートがあり、昔は海岸道がなく、山伝いに次の集落へ向かったと考えられる。
『小海』は山を背に内浦湾に面し三津とは地続きで、地名は三津から見て海の向かい側にあるので向海から小海に転じたと言われる。また海中から光明の差す軸物を発見、これを天満社に祭り以後、光海(こうみ)と呼ぶようになったともいうが、いずれも定かではない。
『三津(みと)』は網代、下田と共に伊豆の三つの津(湊)から付けられたとも、また三戸氏の出身地からとも、あるいは田方平野に通じる地で山野に対し海戸(みと)と解して付けられたとも言われているが、いずれも定かではない。
三津の背後に発端丈山があり、山上に正平十六(一三六一)年、畠山国清が関東管領足利基氏に対抗し立てこもった三津城があったと言われるが、城跡は定かでない。
先日、三津浄因寺にある句碑を訪ねた。
第八世の大顛梵千(だいてんぼんせん)は、俳人其角(きかく)の禅の師匠で松尾芭蕉とも親交があり、号を幻吁(げんく)と称した。
禮者門を敲く羊歯暗く 幻吁
(山本三朗氏建立)
三日月の命あやなし闇の梅 其角
(渡辺龍子氏建立)
梅こひて卯の花拝むなみだかな 芭蕉
(山本三朗氏建立)
白梅や托鉢の僧みな若く 白龍
(山本三朗氏建立)
三津気多神社に"山桜植樹の碑"がある。
夢に見し山桜咲き富士高く 長景
戦後、内浦、西浦の山野を桜で飾りたいと元文部大臣の岡部長景が苗木を寄贈し地元青年団が植樹した記念の碑である。
三津の旧道と新道の分岐点に愛鷹丸遭難者供養塔がある。大正三(一九一四)年、戸田舟山沖で遭難沈没した愛鷹丸の乗員と乗客百余人の冥福を祈り、内浦の海の仲間が建てたと言われる。
『長浜』は、戦国時代の古文書に出てくる地名で、長い浜に面した土地から付けられた。
長浜城跡は、重須と長浜の境にあり海に張り出した小山。長浜城のあった所で、戦国時代、豪族大川氏の居城であった。
『重須(おもす)』は、長浜に続く集落で湾内の入り江に面していることから「面洲」または、この土地にとって重要な洲を意味し重洲と称し、重須と記された。昔は北条水軍の根拠地で船大将梶原氏の陣所。近くには田久留輪(たぐるわ)や城下(しろした)の地名が残っている。
天正八(一五八〇)年三月、武田水軍が重須港に鉄砲を放ち、千本浜の沖合で北条と武田の水軍が海戦となり、両者とも勝負つかず引き上げたと言われる。 (歌人、下一丁田)
《沼朝平成25年8月9日(金)号》
0 件のコメント:
コメントを投稿