2011年10月2日日曜日

「北条五代百年の足跡をたどる」

「北条五代百年の足跡をたどる」
 小和田哲男静大名誉教授が講演
 小田原市と財団法人自治総合センターは先月二十三日、小田原市民会館で「北条五代シンポジウムー北条氏百年の足跡ー」を開催。約千人が入場し、講演とパネルディスカッションが行われた。
 本拠地移転や石高、家臣統制
 戦国時代先駆の稀有な存在
 このシンポジウムは、戦国大名北条氏にゆかりのある沼津市など全国八市二町による北条五代観光推進協議会(会長・加藤憲一小田原市長)の活動の一環として開かれた。シンポジウムに先立ち、同協議会の臨時総会が開かれ、北条氏にまつわる歴史的資産の有効活用や、北条氏をテーマにした大河ドラマ放送実現などを誓う四力条の「北条五代観光推進宣言」が採択されている。
 シンポジウムは二部構成で、第一部は静岡大名誉教授の小和田哲男さんによる「北条氏五代一〇〇年の繁栄」と題した基調講演。第二部は元NHKキャスターとして多くの歴史番組で司会を務めてきた松平定知さんと作家の火坂雅志さん、そして小和田さんによるパネルディスカッション。
 第一部の講演で、戦国時代の研究者として数々の大河ドラマで時代考証に協力している小和田さんは、はじめに「戦国時代は約百年続いた。この百年の間に五代にわたって続いた北条氏は、珍しい部類。今年の大河ドラマ『江』の主人公の実家である浅井氏は三代五十年で滅びてしまった」と話してから、北条氏の歴代当主を解説した。
 初代早雲 早雲に関しては、その出自について解説。従来は「伊勢国(三重県)出身の、どこの馬の骨か分からない男が大名になった」と書われていたが、最近の研究で、その見方は変わってきたという。
 早雲は備中国荏原荘(岡山県井原市)の城主の子で、その一族である伊勢氏は室町幕府の高級官僚の家柄。早雲自身も京都の本家の養子に迎えられ、幕府に仕えたエリートであった。その後の早雲は、肉親の北川殿が駿河の守護大名、今川義忠に嫁いだことなどが契機となり、興国寺城(沼津市根古屋)の城主となった。
 北川殿は、早雲の姉とも妹とも言われているが、どちらなのか、確定はしていないという。城主となった早雲は、伊豆国を支配する堀越(ほりごえ)公方足利家の内紛を利用し、伊豆国を制圧する。
 小和田さんは、早雲の生年について二つの説があることを紹介した。
 一四三二年説と一四五六年説で、三二年説の場合、早雲は享年八十八歳になる。三二年説の側に立つ小和田さんは、「早雲がネズミ年生まれであることだけは、はっきりしている」とし、早雲が応仁の乱(一四六七年~一四七七年)に関わっていることを挙げ、五六年説では、乱に関わるには幼すぎる点を指摘した。また、早雲の呼び名についても話し、早雲は自分のことを「北条早雲」と名乗ったことはない、と説明。そして「もし大河ドラマになったら、この部分をどうするか。ドラマの中で早雲のことを『伊勢新九郎』という、なじみのない名前で呼んだら、視聴者も困惑するのではないかと心配している」と話し、場内の笑いを誘った。
 二代氏綱 小和田さんは「氏綱のことは、きょうは特に強調しておきたい」として、早雲の業績の前で隠れがちな氏綱の活躍について触れた。まず、氏綱が北条氏の本拠地を伊豆韮山から小田原に移したことを挙げ、「上杉や武田、今川を見れば分かるように、大名は本拠地を移したがらないもの」だと話し、氏綱が当時の常識と異なり、関東進出に有利な場所に拠点を移したことを評価。そのうえで「織田信長も本拠地を移していったが、氏綱は、その先駆け」と話した。
 また小和田さんは、それまで「伊勢氏」を名乗っていたのを武蔵国(東京都、埼玉県)へ侵攻する際に氏綱が「北条氏」と改名したことに言及。伊勢氏は確かに名門ではあったが、そのブランドは近畿などでしか通用しないため、関東の武士達に強い印象を与える名を選んだのではないか、と推測。鎌倉幕府の執権を務めた北条氏は、相模守や武蔵守といった関東支配者にふさわしい官職名を名乗っていたため、これにあやかったという。
 三代氏康 「氏綱は北条氏繁栄の基礎を作った」とする小和田さんは、続いて北条の領土をさらに拡大した三代目の氏康について話した。
 小和田さんは「売り家と唐様で書く三代目」という川柳を紹介し、「三代目というのは、初代や二代目と違って家を没落させやすいが、氏康は違う」と指摘。氏康の業績として河越城の合戦について話した。
 この合戦は、氏康率いる兵力八千の北条軍が、反北条連合の八万の大軍を打ち破った戦いとして知られる。ただ、小和田さんは、この八万という数字は水増しであると指摘。当時、西日本最大の大名であった毛利元就が集めた最大の軍勢が四万人。後の織田信長でも最大で六万人の軍勢だったことを挙げ、反北条連合軍が集めたのは、それら以下の数の軍勢ではないか、との見方を示した。
 続いて小和田さんは、氏康が進めた先進的な政策について解説した。
 その一つは、家臣達の役割を明確にしたことで、氏康は家臣のリスト(「所領役帳」)を作成。その中には家臣の領地収入と、戦争時に用意すべき兵士数や土木工事の際の負担額などが記されており、ここまでしっかりと家臣を管理した例は戦国大名の中では珍しいという。
 また、氏康は関東各地に北条氏の出先機関となる城を用意し、そこに自分の息子である氏照や氏邦をはじめとする一族を城主として送り込んだ。これにより広大な領土を一族が分担して治め、それらを小田原の北条本家が一括して統括するというピラミッド型の管理体制を整備した(それらの城は、協議会に加盟する東京都八王子市や埼玉県寄居町などにあった)。
 小和田さんは、このほかの政策として、「五公五民」と呼ばれる一般的な税率五〇%を「四公六民」の四〇%に下げたこと、目安箱を設置したことなどにも触れた。
 四代氏政・五代氏直小和田さんによれば、最盛期の北条氏は、およそ二百五十万石の大名であった、という。武田、上杉、今川などが百万石クラスの大名だったので、北条は非常に強大な大名であった。
 その一方で、近畿や西日本で豊臣秀吉が天下統一を進めると、北条氏は徳川家康や伊達政宗と組むことで秀吉に対抗しようとするが、家康は早々に秀吉に屈してしまう。置き去りにされた北条氏は伊達と連携しつつ、山中城(三島市)、韮山城(伊豆の国市)といった城の防備を固め、秀吉との対決姿勢を鮮明にする。
 小和田さんは、この北条氏の方針について、関東地方で独立王国を築いてきたプライドと、小田原城の堅固さを根拠に挙げた。
 かつて武旧信玄や上杉謙信は小田原城を取り囲んだが、結局、攻め落とすことはできなかった。このため北条氏は、信玄や謙信と同様に、秀吉軍も撃退できると考えていたが、時代の変化が、それを許さなかった。
 信玄、謙信の時代、軍隊の多くは農民を集めて編成された。そのため、小田原城を取り囲んでも、田植えや稲刈りの時期になると、軍隊は農作業のために引き上げていた。しかし、秀吉の軍勢は農民を集めたものではないため、農作業の時期に関係なく、いつまでも包囲を続けることができた。そして、約百日に及ぶ包囲戦の後、北条氏は降伏し、滅亡する。
 小田原城は、町全体を城壁で取り囲む巨大な城であった。「総構え」と呼ばれるこの方法を、秀吉も後に取り入れている。また、北条氏の行政制度は、北条氏の後に関東を支配した徳川氏にとっての手本となった。
 小和田さんは「戦国大名の北条は滅びても、その伝統は次の時代の基礎になった」ことを強調して講演を終えた。
(沼朝平成23年10月2日号)

 北条早雲「庶民に誠実、善政施す」
 一方で敵対行為は厳しく処断
 第二部のパネルディスカッションは、「北条氏の目指した理想国家について」というテーマで行われ、松平定知さんがコーディネーターとして司会を担当。小和田哲男さんと火坂雅志さんがパネリストを務めた。
 中国との関係も密か?
 パネルディスカッション北条氏のくにづくりに迫る
 火坂さんは、一昨年の大河ドラマ「天地人」の原作者。現在、北条歴代当主をテーマにした小説『北条五代』を執筆し、季刊文芸誌「小説トリッパー」に連載している。北条五代観光推進協議会では、この小説が北条氏を扱う大河ドラマの原作となることに期待を寄せている。火坂さんによると、小説の完結は二、三年後の予定だという。
 ディスカッションでは、早雲や北条氏を巡るいくつかの間題について、火坂さんの小説の構想も絡めて語られた。
 早雲の生年問題 最初に松平さんが北条早雲の生年問題について火坂さんの見解を尋ねた。
 火坂さんは、一四三二年説と一四五六年説を比較し、五六年生まれの場合は三十八歳で伊豆を攻め取ったことになり、三二年説では六十歳を過ぎていると指摘。
 その上で、「おじいさんが伊豆に乗り込むよりも、働き盛りの武将が乗り込んだほうが、小説として面白い」と話し、五六年説を前提にして執筆していることを説明した。
 早雲の伊豆進出 小和田さんは、早雲が若き日に京都の大徳寺で孫子の兵法を学んでいた点を挙げ、こうして学んだことを人々の役に立てたいという思いから、京都を出て東国に向かったのでは、と推測。
 一方の火坂さんは、早雲が室町幕府に仕えるのを辞めた理由として、先行きの見えない組織に見切りをつけ、自分の才能を生かして独立開業してやろうという強い意志があったのではないかと語った。
 早雲のイメージ 小和田さんは、一般的に戦国三梟雄(きょうゆう=悪人)として並べられているのは、斉藤道三(恩人から国を奪う)、松永久秀(将軍を殺害、奈良の大仏に放火)、そして伊豆国を奪った北条早雲であることに触れた。
 これに対して松平さんは、早雲は伊豆侵攻の際に病人救済などの善政を行って人々の支持を得て伊豆を平定したことを話し、早雲の梟雄以外の面について意見を求めた。
火坂さんは、早雲の言葉の中に「庶民に対して嘘を言ってはいけない」という意味の言葉があることに触れ、「早雲は敵に対しては嘘をつき、相手をだまして勝つ。でも、庶民に対しては誠実に接しようとする。これは政治家としての懐の深さだと思う」とした。
 小和田さんは、早雲の減税政策や福祉政策が伊豆の人々の支持を得たことを述べる一方で、伊豆国内の一部では激しい抵抗もあったことに言及。降伏しない城に対しては、城兵の身内の首を切って城外に並べて脅迫するなど、アメとムチのやり方で臨んでいたことを話した。そして、早雲の目的は関東に理想郷を作ることであり、天下取りの野心はなかったのではないか、と語った。
 また、早雲の梟雄というイメージは、早雲が出自不明の怪しげな人物だった部分も大きかったと指摘し、近年の研究でその出自がはっきりとしたことで、悪人イメージも薄まるのではないか、と期待した。
 北条氏と地方分権と国際色小和田さんは、応仁の乱以後、戦乱で荒廃した京都から、公家など多くの文化人が地方へと逃れ、日本各地に「小京都」と呼ばれる町が現れた状況を説明。
 これに関して火坂さんは、小田原もそうした小京都の一つだと語り、北条氏の減税政策が人々を小田原に引き寄せ、それが小田原の経済を発展させた、と指摘。戦国時代とは、こうした小京都が各地で栄える地方分権、地方主権の時代であったと分析し、「信長や京都中心の見方では、戦国時代のすべてを知ることはできない」と論じた。
 また、火坂さんは小田原の繁栄に関連して、小田原の薬の老舗である外郎(ういろう)家に言及。外郎家は、もともと中国の出身で、北条氏に仕えて小田原にやってきたという経緯を説明。
 そして、早雲が伊豆を攻めた際に、早雲に協力した伊豆の海の豪族達が「劉」「陳」といった中国風の屋号を持っていたことにも注目し、早雲の背後には渡来人の資本や支援があったのではないか、と指摘した。
 さらに、城下町全体を城壁で囲んで守った小田原城は、中国の都市と同じ構造であることにも触れ、「学者は誰も言いませんが、私は小説家として言っておきたい」と、北条氏と中国との密接な関係を強調した。
 この点について小和田さんは、一五四三年に種子島にヨーロッパ式の鉄砲が伝わる以前から、北条氏には中国式の鉄砲が伝わっていたことを指摘し、北条氏と中国との間に何らかのつながりがあったことを示唆した。
 大河ドラマへの展望 ディスカッションの最後に、松平さんは北条氏が大河ドラマになるためには、どうしたらいいかと問題提起。
 これに対して火坂さんは、「大河ドラマには三原則があると思っている」と答えた。
 一つは、地元の盛り上がりが重要であるということ。「天地人」が大河ドラマになるまで、新潟や山形では、十年近く要望を出し続けていたという。その間、新潟では二つの大きな地震もあり、その復興優先で大河ドラマどころではなくなったこともあったが、粘り強さが実を結んだ、と見ている。
 そして、火坂さんは、大河ドラマと地元の関わりについて、絶大な観光効果があることを指摘。「天地人」の主人公、直江兼続が幼少時に学んだ寺院である雲洞庵は、ほとんど誰も来ないような所だったが、ドラマ放映後、年間四十万人の観光客が訪れた、と説明し、「大河ドラマになるということは、すごいことなんです。皆さんも、今から覚悟しておいたほうがいい」と述べた。
 続いて三原則の二つ目は、戦国時代はドラマ化に有利だということ。火坂さんは「NHKというのは、全国規模の組織だから、地方の人々を重視する。戦国大名とは、地方分権のシンポルみたいなもの」だとし、大河ドラマと戦国時代の相性の良さを強調した。
 三原則の三つ目は、作者の問題。火坂さんは「大河ドラマの原作者は物故者か、存命の場合は巨匠クラスの人が多い」と分析。しかし、その一方で「私は巨匠ではないが、そんな私でも、一度うまくいった。二度目三度目もあるかもしれない」と語り、自身が執筆する小説『北条五代』への自信をにじませた。
 一方、小和田さんは大河ドラマについて、原作の存在が重要であると語り、これまで北条氏を扱った小説には司馬遼太郎の『箱根の坂』があったが、今回、火坂さんの作品が加わろうとしている、と期待を語った。
 そして、NHK職員から聴いた「北条早雲の周りには、女っ気が足りない。ドラマには魅力的な女性キャラクターが必要」という裏詣を披露し、「大河ドラマの原作には、架空の人物でもいいから、ぜひとも魅力ある女性の登場人物が必要」と語ると、火坂さんは「それはお任せください」と即答。この言葉に会場は大いに沸き、ディスカッションもちょうど終了時刻となった。
(沼朝平成23年10月2日号)

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